[いだてん噺]ハルピン(2100文字)
1926年(大正15年)6月ー。
スウェーデンのイエテボリで開催される『第二回国際女子競技大会』への参加を薦められた絹枝だが、最初は断っている。
だが最後は押し切られ、絹枝は1926年8月27日から開催される『第二回国際女子競技大会』に参加することになる。
絹枝はより強い緊張感をもって練習に取り組んだ。
『第二回国際女子競技大会』参加が決まってからは、毎日のように送別会が開かれた。
絹枝が木下東作らに見送られて大阪駅を旅立ったのは、1926年(大正15年)7月8日午後8時のことであった。
たったひとりでの出発でもあり、『単身異郷の地で世界的選手に伍して闘うなど全く無謀』という批判の声もあり、絹枝の表情は晴れ晴れとしたものではなかった。
絹枝に世界への扉を開いた大阪毎日新聞社運動部部長の木下東作は、絹枝にユニフォームをプレゼントし、発車直前のホームで絹枝を励ますのだった。
『そんな淋しい顔をするなよ。自分だって若い娘をひとりで旅立たせるのは心配だ。なにか餞別してやりたかったが、あの作ってやったユニフォーム・パンツを先生と思って競技場で頑張ってくれ』
他の参加選手もなく、コーチ・マネージャーの同行もない、19歳の絹枝ただひとりの旅立ちであった。
絹枝が乗車した下関行きの急行が岡山駅を通過したのは夜の12時頃だったが、そこで絹枝は岡山高等女学校の恩師たちからの見送りを受けたという。
下関から船で釜山へ、釜山から鉄道でハルピンに到着したのは7月14日だった。絹枝はハルピンに21日まで滞在している。
7月17日には女流選手クラブのチャンピオンゲームに誘われて参加し、在留邦人の熱烈な応援を受けたという。
7月20日には絹枝のための特別競技大会が開催され、絹枝は100メートルに優勝し、市長から金メダルが贈られる。
7月21日にハルピンを立ち、モスクワを目指す。
大阪赤十字社病院長の前田松苗院長とベルリンに留学に向かう早大建築科の今井謙次助教授が同行した。ロシア領内はシベリア鉄道での移動であった。
(敬称略)
■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『はやての女性ランナー: 人見絹枝讃歌』 三澤光男:著
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 三澤光男:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『1936年ベルリン至急電』 鈴木明:著
●『オリンピック全大会』 武田薫:著
●『陸上競技百年』 織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia