歴史フィクション・幕末Peacemaker 【08】~生麦事件(04)=生麦事件=~(3393文字)

※人が斬られる話です。ご注意ください。

生麦村だが、『新編武蔵風土記稿』によれば、『昔は貴志村(岸村とも書く)と記されてある』そうだ。
それが生麦村に代わったのは、『徳川将軍が江戸入国のとき、生麦を刈り取って道に敷いたことから生麦というようになった』と記されている。

海に面しており、江戸将軍家に魚介類を献上していて、アサリやアカガイも豊富に採れ、漁師たちは貝をむき、貝殻を道に敷いた。このことから、貝の「生むき」が「なまむぎ」になったという説もある。

どちらが正しいのかは不明であるが、生麦村はさびれた寒村などではなかった。
東海道の川崎宿と神奈川宿の間にあり、人の往来の多い開かれた村であった。
江戸湾に面するところには船着き場があり、多数の商人が済み、村の戸数240軒のうち、実に32軒が商業活動をしていたという。休息所としても機能していたようで『所々に茶屋もある』(吉村昭著『史実を歩く』)という。

生麦事件が起きた現場の風景として、テレビや映画からきたのか、行列の通る道の左右には田畑が広がっているようなイメージがなぜかあるが、実際はそうではなく、生麦村では東海道の左右は、家屋が軒を並べていたのである。馬で東海道から外れて田畑に出るという対応は不可能だった。

なんとか行列のいくつかのグループをやり過ごすことができた4名だが、ここで、島津久光しまづ ひさみつの乗る駕籠のある行列の本体と遭遇する。そして、それは今までのグループと異なり、道幅一杯に広がっていた。

そもそも馬は武士が乗るものである、武士階級の者にとってはそれは常識であった。
勅使を奉り京から江戸へと向かう中で、島津久光しまづ ひさみつは、外国人が馬に乗る姿を目にしたのだろう。

彼が江戸に参府したあと、『薩摩藩は幕府に対し外国人の外交官が乗馬の上、江戸市中を徘徊することを強く非難し、無作法があった場合は是非になく国威を汚さないよう、時に応じた処置を講じるので各国公使に通達して欲しいと届出を出し』ている。

本気であったのか、あえて強く言って抑止しようとしたのかは不明だが、決して先鋭的な攘夷主義者ではない島津久光しまづ ひさみつだが、日本において日本の礼儀をわきまえない者たちを不快に思っていたのかも知れない。そしてその感情は、薩摩藩士たちにも伝播する。

ゆえに、女性を含む外国人たちが、騎乗している姿を見ることは、薩摩藩の武士にとって、決して気分の良いものではなかった。

前方から二列になって騎乗し、こちらに向かってくる外国人たち4名を薩摩藩士たちは不愉快な目でにらみつけた。
先ほどの外国人は馬から降りて、片膝をついた。なのにこの者たちをはなぜ、それをしようとしない。

「行列が広がっている。2列で並んでいては無理だ。1列になろう。僕が前に行く。マーガレット、出来るだけ端に寄ってくれ。馬を決して暴れさせないように、注意するんだ」

リチャードソンは、自分が乗る馬を前に進めた。

リチャードソンは中国・上海から自分の馬を一頭、日本に連れてきていて、江戸まで行ったことがある。そのときことを、以下のように手紙にも書いている。

日本はイギリス以外で、これまで私が住んだ国々の中で最もすばらしい国であり、丘や海岸の風景も壮大ですばらしいものがあります。来日して以来、あちこちと多くの場所を見て回りました。上海から馬を一頭連れて来たので、比較的自由に動き回ることができ、乗馬での散策もかなりよくしています。幸い江戸へ上がる機会がありましたが、日本人が世界の他の地域に住む人々から自分たちを隔絶してきたことを考えると、江戸は本当にすばらしい都市です。

日本に来て約2か月後の1862年9月3日に、リチャードソンがイギリスの父親宛に送った手紙の文面の一部だが、この手紙がリチャードソンの最後の手紙となる。

生麦事件の際に、リチャードソンが乗っていた馬は彼が上海から連れて来た馬だったのだろうか。もしそうでなかったとしたら、リチャードソンが馬を上手に制御することのできなかった要因のひとつだったのかも知れない。

本体の先頭にいた藩士が手振りをした。道の端に寄れという意味だったのだろうか。
しかし軒が並ぶ道では困難であった。外国人4名は馬から降りるという発想を持っていない。
生麦村の人たちは、行列が通るため、皆が家の中に入り、戸を閉ざしていた。道には薩摩藩の武士とリチャードソンら4名の外国人しか存在しなかった。

馬が行列のどこかとぶつかったのか、異様な場の空気を感じて興奮したのか、それともチャードソンが制御できなかったのか。
先頭をいくリチャードソンが乗る馬の足が乱れ、端に寄るどころか反対の行列の方へと進む。

血相を変えた薩摩藩士たちが数名駆け寄って、手を大きく振った。
行列に近づくな、道の端に寄れと言う仕草だったのだろうか。

ヒリヒリとした空気を感じたのか、リチャードソンの後ろにいたマーガレットが乗る馬も興奮しだした。馬を懸命になだめるマーガレットの甲高い声が響く。
リチャードソンの乗る馬は興奮し、列の中を進み始めようとした。
薩摩藩士たちが咎める様に大声をあげたことで、馬がさらに興奮した。

だめだ。急いで横浜に戻るべきだ。
リチャードソンは馬の向きをかえると、後ろの3名にそう言おうとした。

が、それよりも早く、一人の薩摩武士が鋭い叫び声をあげた。
なんと言ったのか、外国人たちにはわからなかった。
それは奈良原喜左衛門だったと言われているが、異説もある。

血なまぐさい描写を避けるため、結果だけを言えば、リチャードソンは、都合二人の薩摩藩士に斬りつけられた。

「マーガレット、横浜に向って逃げなさい、早く」

年長のマーシャルはそう叫び、横浜に戻る指示をした。

「クラーク、きみもだ。突っ切れ」

先ほどやり過ごした先頭グループからも抜刀した薩摩藩士30名が走って駆けつけてきた。

クラークとマーシャルは重傷を負いながらも、囲みを突破する。
女性のマーガレットは斬りつけられるも身をかわし、髪の毛を斬られたものの、刀傷を負うことなく、あとに続いた。
リチャードソンも深手を負いながらも続く。

しばらくかけ続けたが、追手が来ないことを確認したクラークは、馬の速度をゆるめた。リチャードソンを乗せた馬が近づいた。

「斬られた・・・」
息も絶え絶えにリチャードソンは言った。

「わたしもです、リチャードソンさん。もうすぐ横浜です。気をしっかりもってください」
まだ生麦村なのだが、クラークは嘘を言って、リチャードソンを励ました。

マーシャルとマーガレットも合流した。
リチャードソンの傷が特にひどかった。二人の薩摩武士から斬りつけられ、深手を負っていた。

やがて体の力を失ったリチャードソンは落馬し、糸が切れた人形のように道に横たわった。

それを見たマーガレットが悲鳴を上げた。
馬がそれに反応し、マーガレットを乗せたまま走り出した。
クラークの馬もそれに続く。

「リチャードソン、リチャードソン。後生だから返事をしてくれ」

マーシャルは声をかけたが、リチャードソンの斬りつけられた脇腹の傷の深さは、彼を助けて連れていく事を断念させるのに十分だった。
もう彼は助からない、マーシャルはそう悟った。

「すまない。許してくれ、リチャードソン」
マーシャルは馬に鞭を入れて、マーガレットとクラークを追った。

このあと、リチャードソンは自力で街道の脇まで這って行った。
後から追ってやってきた薩摩藩士たちのひとり、海江田信義は、道端の土手で苦しんでいるリチャードソンを見つけ、「いま楽にしてやる」と脇差で、とどめをさした。


1862年9月14日。生麦事件の起きたその日の午後、アーネスト・サトウは滞在しているホテルの前で、馬を走らせていく者たちを目撃する。
皆が怒りにみちた顔をしていたように思えた。

「サトウさん、大変です」
アレクサンダー・シーボルトが青ざめた顔でやってきた。

なにかあったのかい?と聞くサトウに、アレクサンダーは緊迫した面持ちで言った。

「横浜居留地のイギリス人3人が、サツマのサムライに斬られました。1名は死亡、残り2名も重傷です」
 
【続く】


■参考文献

『島津久光=幕末政治の焦点』・『グローバル幕末史』
町田明広(著)

『島津久光の明治維新』
安藤雄一郎(著)

『「幕末」に殺された男』
宮澤真一(著)

『生麦事件』・『史実を歩く』
吉村昭(著)

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