[学者・軍人・政治家]【02】 X線の発見まで[1563文字]

核兵器のある世界はどういう経緯で出来たのか、歴史の流れをたどっていくシリーズの2回目です。
前回はウラン元素の発見まででした。今回はX線の発見からウラン化合物を使って未知の光線を見つけようとするまでとなります。
尚、物理学をはじめとする様々な専門的または難解な話は、ボクに基礎知識すら無いため😵‍💫、ご質問されてもお答えできませんのでご了承ください。


1789年ウラン元素発見から時代は下り、1895年11月8日のこと。

ドイツ南部、バイエルン州ビュルツブルクの町の「ビュルツブルク大学」で、学長のヴィルヘルム・コンラート・レントゲンはある実験をしていました。

ガラス管の中に置いた2つの金属板それぞれにプラスとマイナスの高い電圧をかけて、ガラス管を真空にすることで2つの金属板の間に様々な光が走り、ガラス管自体が美しく輝くという現象が起きます(この光を陰極線と呼びます)。

この当時、多くの物理学者がこの放電現象について研究・実験をしていました。レントゲンもそのひとりでした。

放電現象の実験の最中、真空状態のガラス管から2メートル離れた蛍光板が光っていることにレントゲンは気づきました。
実験室が薄暗かったため、気づいたのでした。

ガラス管の中の光が蛍光板を光らせているのではないかと考えたレントゲンは、ガラス管にカバーをかぶせ光が漏れないようにしましたが、それでも蛍光板は光り続けました。

目には見えない「光線」がガラス管から出て、それはカバーも突き抜けて、2メートル先の蛍光板を光らせていることになります。
それは誰にも知られていない「光線」でした。
レントゲンはこの日から実験室で寝泊まりし、未知の「光線」の実験を続けます。

ガラス管と蛍光板の間を、紙や木などで遮ったところ、未知の「光線」は鉛を突き抜けにくいことがわかりました。
手をかざしてみると、なんと手の骨が蛍光板に映し出されたのでした。
レントゲンは妻を呼び、妻の手の骨が蛍光板に映し出されるさまを観察したそうです。(放射線障害に関しては、今回省かせていただきます)

数学で未知数を表す「X」を使い、未知なる「光線」を『X線(エックス線)』と名付けたレントゲンは、1895年12月28日に論文を発表します。
タイトルは「新しい種類の光線」でした。
生きた人間の骨を写すことが出来るというわかりやすい事実から、X線の医学利用が予想されました。

レントゲンの論文をフランスに紹介したのが、フランスの数学者、ジュール=アンリ・ポアンカレでした。

1896年1月20日のパリ科学アカデミー週例会で、ポアンカレはレントゲンの論文を紹介するとともに、『ガラス管の蛍光を発する部位からX線が発生していることから、蛍光とX線の関連について研究の余地がある』と発言しました。

出席者で蛍光に関する研究をしていたアンリ・ベクレルは、『蛍光物質もX線を発生させるのか』を調べるため、さっそく実験を開始します。
ベクレルが使用した蛍光物質は、ウランの化合物でした。
(厳密にいうと、最初の実験は別の蛍光物質で、ウランの化合物を使用したのは2回目の実験からなのだそうですが)

偶然に発見された『X線』
そしてその発見に触発され、これもまた偶然に、ウランの化合物から『X線』とは異なる未知の光線が出ていることが、フランスのベクレルによって発見されるのですが、今回はその発見のきっかけまでの話となります。


参考・引用資料:
●「プルトニウム」 ジェレミー・バーンシュタイン著
12月1日 「ウラン」の発見者マルティン・クラプロート誕生(1743年)(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社 (gendai.media)
●エックス線物語 馬場祐治 著
放射線医学の歴史 (radiology-history.online)


いいなと思ったら応援しよう!

はーぼ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?