[いだてん噺]二十三日間05(1821文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて6日目、8月9日の午後ー。
大会の競技プログラムは、おおよそこのようなものだと、大会委員長のドクトル・リリエの元に赴いていた黒田乙吉が、ホテルに帰って絹枝に報告した。
[二十七日]
入場式、
百ヤード走、
二百五十メートル走、
円盤投、
ボール・ゲーム(スウェーデン対ユーゴ)、
走高跳。
[二十八日]
百ヤードハードル、
走幅跳、
槍投、
鉄弾投、
ハンマー投、
ボール・ゲーム(スウェーデン対チェコ)。
[二十九日]
六十メートル走、
四百四十ヤードリレー・レース、
立幅跳、
ボール・ゲーム(フランス対ユーゴスラビア)、
千メートルウォーキング。
絹枝の自伝には、各国申し込み人数は総勢101名で、国別にすれば、以下の通りと記されている。
イギリス25名、
スランス15名、
スウェーデン16名、
ポーランド8名、
ベルギー6名、
ユーゴスラビア(不詳)、
日本1名、
チェコスロバキア2名、
イタリー15名、
リトアニア3名
尚、『会の当日は多少、変動があるとのこと』と但し書きがある。
(国別を合計しても、91名にしかならない)
絹枝はオリンピック大会の様子を、本で読んで知っていたので、各競技種目に大変物足りなさを感じたという。
絹枝が参加を申し込んだのは、以下の通り。
[二十七日]
百ヤード走、
二百五十メートル走、
円盤投
[二十八日]
走幅跳、
槍投、
鉄弾投
[二十九日]
六十メートル走、
立幅跳
(※一日、二日とは、大会初日、二日目のことと思われる)
その日の夜。
不安な気持ちもあるものの、『いろんな事で急に大会気分がみなぎってきた』と絹枝は記している。
絹枝が「第2会世界女子競技会」に向けて、気持ちを高揚させていたこの年、大正15年(1926年)ー。
2年前の1924年にパリで開催された第8回オリンピック大会で、三段跳びで日本陸上史上初の6位入賞を果たした織田幹雄は、自らの記録が延びずに悩んでいた。
「織田はもう限界にきている」と新聞に書かれ、郷里の広島に返れば、父親から『そろそろ駄目なのではないか?やめたらどうか』と、言われるような状況であった。
この時、1905年生まれの織田幹雄は、21歳だった。
(※都市名は、人見絹枝自伝に記されているエテボリーに統一)
(敬称略)
■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『はやての女性ランナー: 人見絹枝讃歌』 三澤光男:著
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 三澤光男:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『1936年ベルリン至急電』 鈴木明:著
●『オリンピック全大会』 武田薫:著
●『陸上競技百年』 織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia