[いだてん噺]夕暮れ(1210文字)

岡山高等女学校で、絹枝とテニスのペアを組んだ浮田芳子が、当時── 2年生の頃(大正10年[1921年)]── を回想し、こう語っている。

 岡山は昔からテニスの盛んなところで、私は小学校の6年でラケットをもちました。岡山高女の1年でテニス部に入り、2年で人見さんと組みました。
 
 人見さんは前衛でしたが、見上げるようなノッポ、私はラケットを引きずるようなチビでした。2人が肩を組むと、人見さんのわきの下に私がすっぽりと入るほどでした。
 
 人見さんは福浜から大供までの約6キロの道を、当時がバス等ありませんでしたので、毎日歩いて通っていました。今にして思うとその6キロの田舎道を歩き続けたことが足腰を鍛えていったのではないかと思います。
 
 練習後の夕暮れなど、人見さんの家は遠いからーと心配すると
 『川沿いの道に出たら夕日と競争で走ります。心配しなくて大丈夫です』
 と、竹を割ったような性格で、みな人見さんが好きでした。

『KINUEは走る』 著:小原 敏彦 より

岡山高等女学校2年の時に、絹枝が詠んだ短歌が三首ある。

短歌に詠われている夕暮れの情景と、テニスの練習後の夕暮れ時に家路につく絹枝とが重なり合うような気がする。

牛追ひて我家にいそぐわらんべの口笛響く里の夕暮

竿持ちて野路のぢかへりゆく釣人びとの肩に流るる夕暮の色

人買ひとかひのくるとて母に聞かされし幼きころの恋しかりけり

『短歌からみた人見絹枝の人生』 著:三澤光男より  

『二階堂を巣立った娘たち』 (勝場勝子・村山茂代:著)によれば、『当時の高等女学校では、日本女性のたしなみとして必ず短歌を学習させた』とあり、『絹枝の鋭い感性は国語の教師を驚かせる程であった』と書かれている。

浮田芳子の回想でもそのことに触れている。

 人見さんはスポーツだけでなく、短歌や文章も巧みでした。スポーツ選手として活躍するよりも、女流歌人として有名になるのではないかと予想していた友人も多かったほどです。
 当時、新草会という月例短歌会が開かれていましたが、その鋭い感覚は当時の国語の先生も驚いてられました。

『KINUEは走る』 著:小原 敏彦 より

 この年、時事新聞が主催し大阪の市岡高等女学校で開催される「第4回関西女子庭球大会」に、岡山高等女学校は参加することになった。
 絹枝にとって初めての遠征試合であった。
(敬称略)


■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 著:三澤光男

●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia



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