【三寸の舌の有らん限り】[10]-児玉源太郎03-(1210文字)

 昭和初期の軍人堀場一雄によれば、戦争指導の要諦は、
 ①戦争目的の確立、
 ②進軍限界の規整、
 ③戦争終結の把握
 にあるという。

「児玉源太郎」  著:長南 政義

 近代軍事史を専門とする長南 政義氏は、著書「児玉源太郎」において、児玉源太郎の日露戦争における作戦指導に関する分析を行っている。

①戦争目的

 児玉執筆の「日露講和締結に満足する覚書」によれば、児玉は戦争目的を、不凍港を狙い朝鮮沿岸への進出を企図するロシアを満洲・朝鮮から駆逐して、日本の生存を確保することに設定した。

「児玉源太郎」  著:長南 政義

②進軍限界・③戦争終結

 児玉はこの戦争の地理的進出限界を奉天附近に設定し、奉天占領以後、戦争終結を目的として軍事から外交を含めた政略へと国家活動の重心を移すべきだであると考えていたのである。

「児玉源太郎」  著:長南 政義

 そして、児玉源太郎の戦争理解についてー。

 国家戦略は政略と軍事戦略から構成されるが、児玉は参謀本部次長でありながら、国家戦略レヴェルの視点から陸軍の戦略を構成・立案していたのである。
 これは児玉が「戦争とは他の手段でもってする国家政策の継続である」というクラウゼヴィッツ的な戦争観の持ち主であったことを物語っている。
[略]
 児玉はロシア軍の後退戦略に引き込まれて、知らないうちに勝利の限界点を超越する事態を恐れていたのだ。
 児玉は、開戦当初の時点で、勝利の限界点を見極めることの重要性を認識して戦争指導を進め、戦勝を続けてもそれを維持した。
 
 戦勝をつづけ戦線を拡大し、戦争資源を消耗した昭和期の軍人とは異なる戦争理解である。

「児玉源太郎」  著:長南 政義

 児玉源太郎のような軍人が昭和期の陸軍上層部にいたならば、歴史はどう変わっていたのだろうかー。

 明治37年2月4日の開かれた御前会議で対ロシア開戦が決定した後、2月7日頃より、児玉源太郎は参謀本部に泊まり込むことが多くなったという。 その主たる理由は、作戦計画をさらに練り込み、精度を上げることであった。

 金子堅太郎が児玉源太郎を訪ねて来たのはこの時期あたりであろう。

 参謀本部に行くと、部屋の中央に児玉源太郎がおり、大勢の幕僚を集めて地図を広げたり、様々な書類を開けて研究をしていたと、金子堅太郎が語っている。

 「君がアメリカに行くということを聞いて大いに安心した」
 と児玉源太郎は言う。

 「君は僕がアメリカに行くから安心したというが、僕がアメリカに行けばこの戦は勝てるか、君に聞くことがある」

 金子堅太郎の言葉を受け、児玉源太郎は幕僚に対して、皆あちらに往くようにと言って遠ざけた。

 金子堅太郎あらためて児玉源太郎に尋ねた。

「君は僕がアメリカに行くから安心したと言うが、僕はいっこう安心できない。ただいま山県さんに聞けば、君がすべて陸軍のことは計画していると言われたが、いったい勝つ見込みがあるのかどうか。第一にそれを聞きたい」

(続く)


■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」    著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」           著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」          著:和田 春樹
●「世界史の中の日露戦争」            著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」  著:長南 政義
●「児玉源太郎」                 著:長南 政義
●「小村寿太郎とその時代」            著:岡崎 久彦
●「明石工作: 謀略の日露戦争」         著:稲葉 千晴
●「ベルツの日記」                編:トク・ベルツ


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