西暦で見た幕末・維新(18)~全権、長崎へ~
プチャーチンの来航で『アメリカ艦隊が来航して、その直後にロシア艦隊が来航したということは、両国で事前に提携した可能性が高い』と勘繰った徳川 斉昭。
ですが、どうも事実はむしろその逆に近いものだったようです。
アメリカが日本に艦隊を派遣するという情報を得たロシアが、艦隊を日本に派遣することを決定した、というものでした。
かねてより日本に開国を促し、通商関係を樹立することの必要性を考えていたロシア皇帝ニコライ一世は、プチャーチン海軍中将を全権大使とする使節団の派遣を決定したのでした。
プチャーチン率いる艦船は、ロシアのクロンシュタット港を出港し、イギリスのポーツマス港から喜望峰を回り、シンガポール・香港と進み、実に約300日間を要して、長崎にやってきたのです。
ペリーと異なり、いきなり江戸湾に姿を現さずに、日本の国法に従って長崎に来たのは、プチャーチンの方針ではなく、ドイツ人医師シーボルトの影響によるものでした。
(むしろプチャーチンは、江戸を目指していたのです)
ロシア皇帝が日本に使節団を派遣するという情報を知ったシーボルトはロシア政府に、日本に関する情報の提供の協力を申し入れます。
(シーボルトはペリーの日本遠征に参加することを要請していますが、断られています)
ロシア政府はシーボルトの申し出を快諾し、シーボルトをロシアに招いています。
シーボルトは、日本は鎖国をしている。しかし、長崎だけはオランダ船の入港を認めているので、長崎に向かい、長崎奉行所を通じて交渉すべきだ。と進言したそうです。
1853年7月3日
小笠原諸島の父島にある二見港に入港したプチャーチンは合流したメンシコフ侯爵号から、ロシア皇帝の追加訓令を受け取ります。
その訓令により、プチャーチンは、進路を江戸から、日本の国法を守り長崎に向かうことになったのでした。
そうして、1853年8月22日に長崎にやってきたプチャーチンですが、待つことほぼ1か月後の1853年9月21日に、ようやく国書を長崎奉行所に渡すこととなりました。
『ロシアの国威を傷つけない限りにおいて、寛容の精神で、謙虚に日本の規則と習慣に従うこと』、そう指示されていたプチャーチンは忠実に守っていました。
1853年10月21日
長崎奉行所側から、第十二代将軍徳川家慶が死去したことを告げられたプチャーチンは、哀悼の意を表しました。
ところがー。
長崎奉行所側が、「死去した将軍の葬儀と新将軍の就任式があり、幕府からの回答が遅くなる」と言い出したのです。
流石にプチャーチンもカチンときたのでしょうか。反論します。
『幕府の狙いは、理由をつけては回答を遅らせ、我々がしびれを切らして引き上げるのを待っているのではないか。
そもそも、将軍の死去は国書の受け渡し以前のことで、我々と幕府の交渉の妨げになるものではない。
幕府からの回答を得るまで、我々は日本の沿岸からは離れない。』
さらにプチャーチンは、ロシアを代表して将軍死去の哀悼の意を述べる書簡を作成し、そこに6週間以内に回答を得られなければ、行動を起こす、と記載します。行動を起こす、即ち江戸に向かうということでしょう。
その書簡は、江戸へと送られました。
1853年11月4日
幕府からの国書の回答が届きます。プチャーチンたちは、その回答が読み上げられるのを、さぞ期待していたことと思われます。
が、その回答は『国書は確かに到着した』というものでした。
回答ではなく、単なる受理連絡に過ぎないものでした。
1853年11月19日
プチャーチンは、交渉のため、幕府の全権代表が長崎に向かっているとの連絡を受けます。
設定した期限の6週間を過ぎて進展がなかった場合、本気で江戸に向かうつもりだったと思われるプチャーチンは、ほっとしたことでしょう。
幕府の全権代表は、西丸留守居役・筒井 政憲、勘定奉行・川路 聖謨、儒者・古賀謹一郎(古賀侗庵の息子です)。
幕府全権として長崎へと出立するにあたり、三名の役職も変わります。
筒井 政憲は大目付、川路 聖謨は公事方勘定奉行から、勝手方勘定奉行、儒者・古賀謹一郎は将軍拝謁を許される布衣の役職を与えられます。
この時、筒井 政憲は76歳、川路 聖謨は53歳でした。(1816年生まれの古賀謹一郎が一番若く、37歳ぐらいでしょうか)
彼らは後にプチャーチンから『教養あるヨーロッパ人と比べてもそん色ない』と称賛されます。
■参考・引用史料