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【歴史のすみっこ話】坂本龍馬が勝海舟に弟子入りしたのはいつですか?

まだ150年程度なのか、もう150年も前なのかは、わかりませんが、幕末維新の歴史ではわからないことが意外と多くありますよね。

タイトルに書いたことも実は、この日という定説が無いらしいです。
まぁ、弟子入りしたのが重要であって、いつ弟子入りしたのかは、重要度が低いのかもしれませんが。

文久三年三月二十日付け(1863年5月7日)で、脱藩した龍馬が姉の乙女に宛てた手紙には、こう書かれています。

今にては日本第一の人物、勝憐太郎殿という人のでしになり、日々兼て思付所をせいといたしおり申候。

勝麟太郎と書くべきところを勝憐太郎と間違えていますね、龍馬は😆。

この手紙をもとにすれば、文久三年三月二十日(1863年5月7日)よりも前に、坂本龍馬は勝海舟に弟子入りしたことになります。
では、それはいつなのでしょうか?

江戸にいた久坂玄瑞の、文久二年十一月十二日(1863年1月1日)日記には、こう書かれています。

暢夫(ちょうふ=高杉晋作の字)同行、勅使館に往、武市を訪、龍馬と万年屋で一酌

文久二年十一月十二日(1863年1月1日)江戸久坂玄瑞は、高杉晋作と一緒に勅使館という宿に行って(幕府に早く攘夷をしなさいと督促しに来た三条実美と会い)、その後、一人でか高杉晋作と一緒なのかはわかりませんが、武市半平太と会い、そして、そこでかもしくはその帰りにたまたまあったかは不明ですが、坂本龍馬と会ったので、万年屋というところで久坂玄瑞龍馬と酒を一緒に飲んだ、ということになります。

この時期、攘夷主義である久坂玄瑞と一緒に酒を飲んだ時点で、龍馬はまだ攘夷主義者であったのか、それとも勝海舟の影響を受けて開国派へと思想を転換させていたのか、残念ながら久坂玄瑞の日記からは断定できません。

勝海舟の、文久二年十二月二十九日(1863年2月17日)の日記にはこうあります。

千葉十太郎来る、同時坂下龍馬子来る。京師の事を聞く

歴史学者の松浦玲氏はこの記述について、『勝が千葉十太郎を呼び捨てにし、龍馬には坂下龍馬子と子をつけたのは、龍馬を傑出した存在だと認めている証拠だ』と述べており、『何時からとはわからないが、以前から入門していたのだろう』とみています。

坂本龍馬が江戸にいることがはっきりわかっているのは、千葉道場にやってきた文久二年閏八月二十二日(1862年10月15日)からだそうです。

したがって、文久二年閏八月二十二日(1862年10月15日)から、文久二年十二月二十九日(1863年2月17日)の期間のいつか、坂本龍馬は勝海舟に、(どういう伝手を使ったかは諸説ありますが)弟子入りを果たし、攘夷主義から開国主義へと思想を転換させたのではないかと思われます。

弟子入りした具体的な日にちよりも、龍馬が思想を転換させたことの方が、後の歴史には重要なことだとは思いますが、とはいえちょっと興味はありますね😊


■参考・引用資料




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