[いだてん噺]モスクワ滞在(2/2)(1137文字)

 森林公園の中にある運動場では、マトロスモク所長とシケルバコ書記長が手配したのであろうか、5名の女性が絹枝と一緒に走るために待ってくれていた。
 さっそく絹枝は練習を始めた。

 スタートが思わしくない。シベリアの車中の影響で百メートル疾走が苦しい。五十メートルを五人の選手と一緒に試みる。
 六秒八で一着になった。この記録からおして六十メートルには大して悪い記録は出ないだろうとうれしかった。

『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著

 2時間ほど練習したあと、黒田乙吉の家に戻り、その日の夜は11時過ぎに床についた。
 ロシアに対して誤った先入観を持っていたことを、絹枝は反省するのだった。

 モスコーに到着するまで、私はやれ赤化とか過激派とか、または労農政府の手きびしい政策とか、そんなことをさんざん人々から聞かされていたので、ソヴエトロシアとはどんな怖い所だろうかと思っていた。
 
 人々の着物も真っ赤なんだろう、体の色も、腹の中までみな赤くていたるところで人殺し、喧嘩などがあるのだと思って、このモスコーの地に足を踏み入れたのだったが、聞くと見るとは大違いであった。
 
 ロシアの人等は[略]、何の飾りも無くかえって竹を割ったような温か味のある人たちであることをつくづく感じた。

『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著

 1926年(大正15年)7月31日の朝。絹枝に、体育会議所から電話がかかって来た。
 今日も公園で練習が可能なので来てください、とのことであったが、この日の夕方に出発する予定なので練習はできませんと絹枝は、残念だが断ったのだった。

7月31日の午後10時半。絹枝はレニングラード行の汽車に乗る。
今回の同行者は黒田乙吉であった。

 列車の中、黒田乙吉は英語で書かれた競技の本を開き、勉強を始めた。
 陸上競技などについて、少しも分からなかったが、会社からマネージャとして絹枝に同行するよう言われ、勉強をし始めていたのだった。

 絹江らが目的地のエテボリーも到着したのは、1926年(大正15年)8月4日であったー。

 (敬称略)


■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『はやての女性ランナー: 人見絹枝讃歌』  三澤光男:著
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 三澤光男:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia

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