[いだてん噺]二十三日間06(1566文字)

  スウェーデンのエテボリーに着いて7日目、8月10日。

 この日、絹枝は地元のスポーツ用品店に行き、槍、円盤、巻き尺を購入している。
 『巻き尺の安価で丈夫なことには驚いた』と記している。

 昨日、練習をし過ぎたためか、マッサージをしなかったためか、右足の股関節が痛み、スタートの練習は行わず、走り幅跳びも1回のみで切り上げている。(円盤投げは30メートル81が出せた)
 
 練習は早々に打ち切り、大阪毎日新聞に送るための写真を撮った後、委員会事務所を訪れ、各国選手の申し込み書を見ている。

 百ヤード、六十メートルには各国共に名選手が集まる様子だ。
 チェコのメゼリコバは今度は出場しないと聞いてうれしかったが、また一面には会ってみたいとも思った。

 翌日の8月11日は、まる一日、休みとしており、自伝には記されていない。

 一方、日本にいる織田幹雄は、三段跳びの記録が延びずに悩んでいた。

 いや、前年には14メートル80を出しているのに、今は出場した大会の記録はせいぜい14m40~50どまり。最高でも14メートル65であった。
 走り幅跳びも同様に記録は伸び悩んでいた。

 「これはいかん。どうしたものか」と思案を重ねた結果、『これまでのジャンプのフォームは外国選手のモノマネをしていたに過ぎなかったのではないか』という結論に至った。

 これまでのただ勢いにまかせ、大地を思いきりたたくだけのやり方ではいけない。膝を曲げてみても、それだけでは形だけのものに過ぎない。
 では、どうすればいいのか。

 足の裏で大地を叩くと同時に、上に向って伸び上がろうとしなければいけない。伸びる力があってこそ「本物」の跳躍ができる、そう考えた織田幹雄は、上に向って跳び上がる訓練に没頭した。

 街路を歩いていて木の枝が塀の外に出ていれば、それに飛びつく。
 よその家を訪れ、玄関に足を踏み入れて、天井が高いと見れば、パッと跳び上がって、そこに手を触れようとする。
 それこそ四六時中、「高いもの」を見つけては跳びつく毎日であった。
 知らない人の目には、おそらく「変人」にうつったであろう。
 [略]

 真上に向って跳び上がる練習と同時に、いつ、どこに一番力を入れたらいいのか、という研究も重ねていった。そういう体勢で、どこで踏み切ったらもっとも効果的か‥‥。
 足のつま先からか、中心部か、あるいはかかとから踏み込むのがいいのか。いろいろやっては距離を測る。
 また、どんなグラウンド・コンディションでも適応できるように、それぞれのやり方でスピードを変え、助走距離を伸縮しては跳ぶ練習をした。

 その記録を、毎日、毎日、ノートに書き留めていった。
 フォームについては、一番遠くへ跳んだということだけではいけない。
 気持ちよく、スムーズに跳べて、しかも距離もでる、というのでなければならない。
 これらのデータを突き合せていくと、より優れたひとつの型が出て来るはずである。
 そして、その答えはそれから数か月後にでてきた。

織田 幹雄の記録が、伸び始めるのは1927年(昭和2年)に入ってからであった。

(※都市名は、人見絹枝自伝に記されているエテボリーに統一)
(敬称略)


■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『はやての女性ランナー: 人見絹枝讃歌』  三澤光男:著
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 三澤光男:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia

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