西暦で見た幕末・維新(6)~日米交渉・初日~

【はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


アメリカ東インド艦隊の旗艦サスケハナ号に警備艇を横付けした、浦賀奉行所与力中島三郎助らが行った最初の行動について、『遠征記』では以下のように記録しています。

(艦隊は、日本が繰り出した多数の防備船に囲まれ)やがて一隻の防備船が旗艦の舷側[側面]に横付けになった。船中の一人が紙の巻物を手にしているのを認めたが、サスクェハンナ号の士官はそれを受け取るのを拒絶した。しかし彼らはミシシッピ号の舷側でその巻物を開いて高く捧げて読めるようにしてくれた。それはフランス語で書かれた文書で、旗艦は退去すべし、危険を冒してここに碇泊すべからずという趣意の命令が書かれているのを発見した。
(『ペルリ提督日本遠征記』三九五頁)

「黒船来航 日本語が動く (そうだったんだ!日本語)」著:清水康之

19世紀当時フランス語は国際共通語であり、そのことを日本側の(少なくとも)通詞関連者は知っていたことを示すエピソードと言えます。

(時代の変遷とともに)異国船の来航を阻止する役目も追うようになった浦賀奉行所では、ペリー艦隊が来航するという風説とは関係なく、あらかじめこのような時のために、用意していたのかもしれません。

しかし、サスケハナ号の船員たちは、それを無視したかのように、撤去の姿勢をみせようとしません。ただどこの国の言葉ともわからない言葉で誰かが怒鳴るだけでした。

「黒船来航 日本語が動く (そうだったんだ!日本語)」によると、驚いたことに、このときサスケハナ号にいた通訳(おそらく主席通訳官のウィリアムズ)は、日本語で『提督は高位の役人としか会わない。あなた方は帰還せよ』といった意味の言葉を叫んでいたようです。
そして、オランダ語通詞の堀達之助は専門であるオランダ語を使い、お互いが何語を使って叫んでいるのか理解できずに叫びあう状態だったのです。

以下はちょっとしたエピソードです。
ペリーは日本政府と交渉するにあたり、何語で行うかを思案していました。
そして、日本語のできる通訳を雇い、日本語で交渉することとしたのです。
その過程を、『開国史話』著:加藤祐三から以下に引用します。

ペリーは日本語案を考えた。出国前に最良の通訳候補を探した結果、宣教師のS・W・ウィリアムズに的を絞った。彼は1833年以来、アメリカ対外布教協会の宣教師として中国に滞在し、おもに印刷の専門家として活躍(略)かつ『中国総論』(初版は1848年刊)の著書を持つ中国専門家である。
ペリーの訪問を受け、通訳要請を聞いたウィリアムズは、困惑する。
自分の日本語は10年以上も前に読み書きの訓練をきちんと受けていない日本人漂流民から習ったもので、しかも日本語の通訳など務まらないとウィリアムズは断った。
 苛立ったペリーは「中国滞在が20年もなるのに、日本語ができないのか」と迫る。ウイリアムズが日本語と中国語の違いを説明すると、ペリーは尋ねた。「では、中国語には自信があるのか」
こうしてウィリアムズは、中国語の通訳兼顧問として随行することを了承する。

『開国史話』著:加藤祐三

そんなウィリアムズですから、日本語で叫んでも、中島三郎助たちに伝わらなかったのでしょう。

国際公用語のフランス語で書いた書面を見せても反応がないことで、彼らはフランス語も読めないのか、と思ったのかどうかはわかりませんが、通詞の堀達之助が、おそらく彼が唯一知っていたであろう英語で叫びます。

「アイ キャン スピーク ダッチ(私はオランダ語が話せる)」

この言葉に反応して、サスケハナ号のオランダ語通訳のポートマンが顔を出し、オランダ語を介して、日米の会話がようやく始まります。
尚、ポートマンは、徳川幕府にはオランダ語通詞がいると知ったペリーが、上海で雇った若いオランダ系アメリカ人です。
(以下、「開国史話」をはじめとする書籍を参考に、日米の交渉内容を記述します)

『提督は貴国の高官のみが当艦船に乗船することを希望している。役人は帰れたし』という意味のことをポートマンが叫びます。
 
ペリーは、日本人は自分たちを「夷狄」(いてき=野蛮人)と見ていることを、日本を研究する過程で理解していました。
威厳をもって日本と交渉し成果を得るためには、下級の役人ではなく、相当の権力者とのみ会うべきであると判断したのです。

ここで、堀達之助は機転をきかし、隣にいた浦賀奉行所与力、中島三郎助を指さして、叫び返します。

「この方こそが、浦賀のバイスガバナーであられる」

バイスガバナーは、副総督(アメリカでは州副知事クラスでしょうか)という意味を含んでいる言葉です。

浦和奉行所は奉行が2人いて、交替で江戸城に詰めます。
浦和に居る奉行の下には組頭が2名、さらに下に与力が20名。
そしてさらにその下に同心が100名、という構成です。
 
中島三郎助の役職である与力は、将軍にお目通りすることが許されない、どちらかというと下級の武士階級に属します。
与力が副総督を名乗ることは、かなりの役職詐称になりそうですが、そうも言ってられない状況でした。
堀達之助から、かくかくしかじかなのでと説明を受け、中島三郎助も腹をくくります。

バイスガバナーが来ているということを聞いて、オランダ語通訳のポートマンは、ペリーに伝えるために船内に戻りました。
ポートマンからの報告を受け、バイスガバナーなら問題なし、乗船を許可する。しかし対応は副官であるコンティ大佐(大尉とする書籍もあり)がせよ、とペリー提督は命じます。
 
こうして、与力・中島三郎助と通詞・堀達之助は、ペリーのいる旗艦サスケハナ号へと乗船したのでした。

副官のコンティ大佐が『なぜ総督自らがこない?』と、中島三郎助に質問しました。
「提督は船に乗らないことになっている」と中島三郎助がしれっと答えます。
そして、「貴艦隊の来航目的、ならびに艦隊の艦船名を教えていただきたい」と逆に問い返します。
コンティ大佐は、「我々は日本の皇帝にアメリカ大統領の国書を捧呈するためにやってきた。それ以外の質問には答えない」、といった意味の返答をします。

中島三郎助が、「日本では長崎のみが対外交渉の窓口となっている。そちらに征かれよ」と返答すると、コンティ大佐は、「国書を捧呈するために江戸に来たのだ。然るべき役職の高官との面会を要求する」と言います。
そしてさらに、「日本は無礼ではないか。ただちに我が艦隊を取り囲んでいる警備艇を撤去させよ」と要求します。
 
中島三郎助はその要求をのみ、警備艇を撤去させたのち、再度長崎に向かうように依頼しますが、コンティ大佐は譲りません。
「長崎には行かない。国書受け取りを拒否するのなら、このまま艦隊を進ませて、江戸に上陸し、国書を持参する」とまで言い出します。

これ以上は埒があかないと判断し、中島三郎助は、「国書を長崎以外で受理することを了承する権限を自分は持っていない。明日の朝、自分よりも高位の役職の者と交渉いただきたい」と返事をしてサスケハナ号を退去しました。

中島三郎助の報告を受けた浦賀奉行、戸田氏秀は、与力の香山栄左衛門に命じます。
「明日、ガバナーと名乗り、長崎に征くように彼らを説得せよ」と。
 
そして、本日判明したアメリカの想像もしなかった強硬な姿勢を知らせるべく、作成した書面を早船で幕府に送るのでした。

日米交渉の初日、アメリカの強硬な姿勢が鮮明となるのみでした。

一方、その夜の10時。江戸在勤の浦賀奉行、井戸弘道から、ペリー来航の最初の連絡を受けた老中首座、阿部正弘は老中・若年寄を招集し、協議を行いましたが、浦賀奉行の戸田氏秀同様、「避戦」を方針とすることを確認するにとどまった模様です。
 
アメリカ側の強硬な姿勢に関する最新情報は、浦賀奉行所から届いておらず、幕府に切迫した危機感はありませんでした。

アメリカの強硬姿勢に幕府が慌て出すまでに、まだ少しの時間を要しました。


引用・参考資料
■「ペリー来航」著:三谷博 出版社:吉川弘文館

■「開国史話」著:加藤祐三 出版社 ‏ : ‎ 神奈川新聞社 

■「浦賀奉行所」著:西川武臣  出版社 ‏ : ‎ 有隣堂

■「黒船来航 日本語が動く(そうだったんだ!日本語)」著:清水 康行 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店


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