小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(14)~ドンケル・クルティウスとの交渉[2]~(1570文字)
※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。
ドンケル・クルティウスがオランダ商館館長に任命されたのは、1852年4月、ペリー来航の1年3か月前のことでした。
東インド最高軍法会議裁判官を務めていた1813年生まれの当時39歳だったドンケル・クルティウスにとっては、格下になるオランダ商館館長に任命されたことになります。
とはいえ、ドンケル・クルティウスがなにかやらかして左遷されたわけではなく、オランダ政府が法律の専門家であるドンケル・クルティウスを、ペリー来航を控えたこの時期にオランダ商館館長として日本に派遣したのでした。
オランダがドンケル・クルティウスに課した役目は、日本がアメリカとの通商条約を結ぶ前に、日本にオランダとの通商条約を結ばせ、日本におけるオランダの地位の確保を行うことでした。
オランダ商館館長として来日したドンケル・クルティウスの初仕事は、ペリー来航を予告する情報を混ぜた「別段風説書」を幕府に提出することでしたが、結果として幕府はペリー来航の情報を事前に入手していたにも関わらず適切な対応をすることができませんでした。
日本に対するアメリカの真意を探るため、長崎奉行、水野忠徳・大沢乗哲は、ドンケル・クルティウスとの会談に臨みました。
会談は、1853年11月1日に始まり、11月3日、11月5日、11月6日の4日間に渡りました。
会談のなかでは、長崎奉行側の通商(開国)に対する慎重的な発言、クルティウスの法律の専門家としての回答が目につきます。
会談における主目的である、日本に対するアメリカの真意に対して、クルティウスは以下の見解を述べています。
クルティウスの見解では、『アメリカが日本に望むことの第一は石炭置き場の確保と船の修理場。通商は第二。』とのこと。
会談の内容は幕府へと伝えられました。
石炭置き場の確保と船の修理場を一時的に貸与することは、薪水給与令の範疇に収まるので受け入れるが、通商は第二目的であり、拒否する。
ペリー再来航時の幕府の返答方針は、オランダ商館館長ドンケル・クルティウスの会談で決まった、と言えるかもしれません。
■参考文献
「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」
岩下哲則(著)
「幕末外交と開国」
加藤祐三(著)
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