[歴史のすみっこ話]東京行進曲[1212文字]
昭和3年(1928年)の秋。
映画会社日活の宣伝部長、樋口正美[ひぐち まさみ]が、詩人の西條八十[さいじょう やそ]の自宅を訪ねました。
『雑誌「キング」で連載中の菊池寛[きくち かん]の小説、『東京行進曲』を映画化しますので、ついては主題歌を書いてくれませんか』
映画主題歌の作詞依頼でした。ちなみに日本映画最初の主題歌になります。
依頼を引き受けた西條八十はさっそく歌詞の作成に取り掛かります。
この戯画(カリカチュア)は「風刺」という意味があります。
西條八十が作成した『東京行進曲』の1番の歌詞は当初は以下の様なものでした。
作曲を担当する中山晋平[なかやま しんぺい]が、「この『彼女の涙雨』という彼女のをどうか『ダンサーの』とさせていただきたい。その方が、曲に弾みがつく」と提案します。
今でいう所のヒットメーカー的存在であった中山晋平の要望に、西條八十は『否応なく』応じました。
そしてレコードの吹き込み(録音)の当日に、4番の歌詞に対し修正の依頼が、レコード会社ビクターの岡文芸部長から入ります。
西條八十が当初書いた4番の歌詞は以下の様なものでした。
『官憲がうるさそうだから、ここだけ何とか書き換えてくれ』と4番の前半2行の書き換えを依頼しました。
西條八十にすれば、『よく見掛けた世相描写』だったのですが、そういわれては拒否できません。
その場で5分もかからずに修正し、『これでいかがですが?』と差し出したそうです。
それが、現在の4番の歌詞になります。
こうして佐藤千夜子が歌う『東京行進曲』は昭和4年6月に発売されます。
当時、蓄音機の普及台数20万台に対して、『東京行進曲』は25万枚も売れたそうです。
もっとも映画「東京行進曲」(監督:溝口健二)の方は、数々の製作トラブルがあり、結果、興行的には失敗したそうです。
大ヒットした『東京行進曲』ですが、レコードを出した後、小田原急行鉄道から「小田急とつめて(略して)呼ぶのはけしからん。これでは(歌詞からは)まるで恋の逃避行電車だ」とクレームを付けられることになります。
(後に小田原急行鉄道には小田急に社名を変更します)
尚、作詞の西條八十が受け取った報酬は30円で、作曲の中山晋平は5,000円、歌手の佐藤千夜子は2,500円です。(当時は作詞家の地位が低かったそうです)
※参考・引用資料
『素顔の昭和』 著:戸川猪佐吉武
『西條八十』 著:筒井清忠