[いだてん噺]日本の人見(1576文字)

 1925年(大正14年)。
 絹枝が京都市立第一高等女学校の教員となり、生徒の指導に勤しんでいた頃、二階堂トクヨは二階堂体操塾の専門学校への昇格に向け準備を推し進めていた。
 
 そのトクヨのもとに台湾総督から招待状が届く。
 1925年(大正14年)8月11日から10日間の予定で開催する、台湾教育会主催『全島女教員体操講習会』講師として来台願いたいーという内容であった。

 トクヨは二階堂体操塾体操塾の卒業生4名を、自分の代理講師として派遣することを決めた。
 そのうちの一人は絹枝であった。
 
 トクヨは第一高等女学校校長に、台湾総督からの招請によるもので名誉ある大任であるため、と絹枝の中途退職に理解を求めた。
 第一高等女学校校長はこれを了承し、絹枝は一学期終了後、二階堂体操塾へと呼び戻されたのだった。

 トクヨが代理講師として台湾へ派遣した卒業生は4名で、体操担当・内田トハ、唱歌遊戯担当・御笹政重、体操担当・船田マツ、そして競技担当に人見絹枝であった。

 トクヨから自らの代わりの講師として、台湾に行って欲しいとの要請を受けた絹枝は、トクヨが自分を選んでくれたことに深く感謝するのだった。

 台湾日日新聞の8月9日には以下の記事が掲載された。

 『内地に於ける斯界の泰斗二階堂氏の推薦による四女史は8日来北(略)人見女史はホ・ス・ジャンプに世界的レコードを作った人だけに競技にかけては中々の人気者。まだ19歳とかで今春二階堂塾を巣立ったばかり。』

また8月12日の記事には、台湾での講習の様子が書かれている。

 『講習員も手心がわからず、長袖や袴美しく(略)四女史は運動服姿軽げに甲斐甲斐しく運動場に立つや、いずれも勇み立って晴れ着のまま我も我もと列に加わり(略)人見女史が燃え立つ血潮でぢっとしていられないように動くので、一同も汗だらだらになって競技に夢中(略)』

 『全島女教員体操講習会』終了後、絹枝たち四名の講師陣は8月26日まで新竹・台中・台南・高雄の各地で講演や講習を行い、その後日本に戻るのだった。

 研究生として二階堂体操塾に戻った絹枝は、トクヨと共に二階堂体操塾の専門校昇格の仕事に打ち込む。
 (この時、絹枝の1年後輩の藤村てふも、絹枝とともにトクヨを補佐している。藤村てふはこの後、絹枝の生涯を通じ、友として絹枝を支えることになる)
 
 同時に絹枝は以下の大会に出場し、数多くの新記録を打ち立て、『日本の人見』と呼ばれることになる。

 ●10月4日
 第4回岡山県女子体育大会
  番外参加 50m 6秒8(日本新) 100m 13秒2(日本新)
  ホ・ス・ジャンプ 10m50 走幅跳 5m7

 ●10月16日
 大阪府下女子校総合運動会
  番外参加 50m 7秒0 ホ・ス・ジャンプ 11m45(世界新)

 ●10月18日 
 第2回神宮競技大会 近畿予選
  50m 6秒8 ホ・ス・ジャンプ 11m62(世界新)

 ●11月1日~3日
 第2回明治神宮競技大会
  50m 7秒0 ホ・ス・ジャンプ 11m35

 ●11月14日~15日
 第8回日本オリンピック大会
  50m 6秒7 ホ・ス・ジャンプ 11m45  走高跳 1m42(日本タイ)
  立高跳 1m47(世界新)

 (敬称略)


■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 著:三澤光男

●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia

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