[いだてん噺]祖母(1112文字)

夏休みも終わり、絹枝は再び上京することになった。

まだ18歳の絹枝は、二階堂体操塾でのこれからの辛い日々を思うと、このまま実家にいたいと言う気持ちがどうしても強くなってしまうのだった。
祖母が願う立派な先生にならねばという気持ちとの間で揺れ動きながら、絹枝は実家を出たのだった。

 冬は寒かろうからというので、わざわざ祖母の作ってくれたお蒲団を持って再び故郷の家を出ました。(略)
 祖母は村はずれまで、近所の子供を背負ってついて来られ、私の姿が見えなくなるまで見送ってくれました。
 
 祖母は六十四になる人とは思えないほど元気な人でした。背も高く、足袋は十一文を穿いていました。村でも年寄りの手本とされるほどで、堅いところもありましたけれど、物事は母や姉などよりずっとよくわかっていました。
 家中の誰よりも私を一番可愛がってくれて、出発の時なども、自分の手で作られた西瓜を私に食べさせて喜んでおられました。

『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著より

岡山駅で友(二階堂体操塾の学生)2人と合流し、絹枝たち3名は列車の中があまりにも暑いため、つい色々な飲み物、食べ物を口にしてしまう。

列車が名古屋を通る頃、絹枝は立つことも出来ないほどの、激しい腹痛と頭痛に襲われた。
なんとか二階堂体操塾にたどり着くも、絹枝は40度2部の高熱で3日間病の床に伏せるのだった。3日の間、二階堂トクヨは懸命に絹枝を看病した。

医師より、当時岡山地方で流行していた『流行性脳炎』の疑いありと診断されたことから、絹枝の両親に電報が打たれた。

「キヌエキトク」

絹枝の両親は急ぎ東京へと向かった。

家中が騒然とするなか、祖母は日ごろから熱心に信心する甲州見延山に向って「南無妙法蓮華経」を二時間唱え続け、午前3時頃に「疲れたようだ」と言って、東を向いたままで床に就いたという。

私が三日の後、熱が引き授業に出た日、祖母は東に向いたまま六十四を限りに黄泉の客になってしまいました。

『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著より


祖母の死は、絹枝には知らされなかった。
(敬称略)


■参考・引用資料
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『KINUEは走る』 著:小原 敏彦
●『短歌からみた人見絹枝の人生』 著:三澤光男

●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
● 国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia

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