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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(10)~確執その3~(1591文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


将軍徳川 家慶とくがわ いえよしに、徳川 斉昭とくがわ なりあきの海防参与への登用に対する真意を確かめるべく、 家慶 いえよしに拝謁した老中首座阿部正弘あべ まさひろでしたが、病の床に伏せ、苦悶の表情を浮かべる徳川 家慶とくがわ いえよしの様子を目前にすると、真意を伺うことを諦めざるをえませんでした。

家慶 いえよしの真意はわかりませんが、御用人の本郷泰固と平岡道弘の口から、 斉昭なりあきの海防参与登用に賛同の意を示していないことが老中たちに知れわたった今、無理に 斉昭なりあきの海防参与登用を押し通せば、今後の政局の運営に支障をきたすと判断したのでした。

独断専行はせず、敵を作らずに、あらゆる方面に気を配り、協調関係を構築して政権を運営することを旨とする阿部正弘あべ まさひろは、徳川 斉昭とくがわ なりあきの海防参与登用の提案を、一旦断念することにしました。

この時のいきさつにより、幕政に参加を望んでいた徳川 斉昭とくがわ なりあきと、それを反対した老中松平忠固まつだいら ただかたとの間に確執が生れたのでした。

少し前後しますが、1853年7月20日、幕府はペリー来航を朝廷に報告しています。
孝明天皇はこれを受け、同日、朝廷の祈願の対象となっている七社七寺に祈祷を命じています。(すでに3日前にペリーは一旦日本を去っていますが)
 
まだこの時期は、孝明天皇が幕府に対し、具体的な意見をいうといった状況ではありませんでした。

1853年7月24日。
浦賀奉行から長崎奉行に転出が決まった水野忠徳みずの ただのりに対し、阿部正弘あべ まさひろは珍しく老中たちに意見を求めることなく独断で、交易のあるオランダに七隻の蒸気軍艦を発注することについて交渉し、助言を仰げと命じます
この七隻という数字の根拠を示す史料は見つからなかったのですが、おそらく特に根拠はなく、大雑把な数字だったのではないでしょうか。
(尚、水野忠徳みずの ただのりは8月25日に江戸を出立し、9月27日に長崎についています)

1853年7月27日。
第12代将軍徳川 家慶とくがわ いえよしが死去します。
(葬儀の準備等が必要なため、この当時、将軍死去が公開されるのは死去から1か月後となります)
既に将軍後継者は徳川 家慶とくがわ いえよしの四男、徳川 家定とくがわ いえさだ(当時は家祥いえさき)に決まっていました。
この日以降、老中首座阿部正弘あべ まさひろは水面下で動きます。

1853年7月31日。
アメリカ大統領国書を公開し、広く意見を求めることの諮問の結果が下されます。

1853年8月5日および8月7日。
江戸幕府は諸大名から庶民にまでアメリカ大統領国書を公開し意見を求めました。これは江戸幕府が開かれて以来の出来事でした。

1853年8月7日。
正式に第13代将軍に就任していない
徳川 家定とくがわ いえさだから、徳川 斉昭とくがわ なりあきは、海防参与を命じられます。
(老中首座阿部正弘あべ まさひろが水面下で工作したものと思われます)

まだ正式な将軍ではないにしても、次期将軍からすでに任命されたとあっては、異論をはさむことはもう出来ません。
 
徳川 斉昭とくがわ なりあきの海防参与の登用に反対していた老中松平忠固まつだいら ただかたも、さすが阿部様、根回しにぬかりなし、と感心する以外になかったのかも知れません。


■参考資料
 ◆日本開国史
  石井 孝(著)
 ◆幕末外交と開国
  
加藤 祐三(著)
 ◆幕末の天皇
  藤田 覚 (著)
 ◆幕末の将軍
  久住 真也 (著)


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