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[歴史の断片]1945年4月7日(2470文字)

七日(土)晴
午前七時 警報敵編隊北上中なりと。十時ごろB29九十機。P51三十機帝都に入る。
なおこれと同時にB29百五十機名古屋に向う。
合計二百七十機。空爆開始以来のB29の大群なり。これに加うるにP51は、いよいよ硫黄島より発進せるものなるか。陸上基地より発進せる戦闘機としては初見参なり。(以下略)

『戦中派不戦日記』 著:山田風太郎

鈴木貫太郎内閣の親任式は、1945年(昭和20年)4月7日午後10時半に行われた。
(外相など一部の閣僚はまだ決定していなかったため、鈴木貫太郎首相が兼任の形で親任式が行われた)

外相として広田弘毅(ひろた こうき)元首相を考えていたが、広田 弘毅は入閣を断わり、代わりに東郷茂徳 (とうごう しげのり)を推薦した。

この時期、東郷茂徳は東京の空襲を避けて軽井沢に疎開していた。
その東郷茂徳に長野県知事からの電話で「組閣中の鈴木大将から至急上京するよう伝えてくれとの連絡があった」と知らされたのは、4月7日午前のことだった。

上京した東郷茂徳が、鈴木貫太郎とあったのは親任式後だった。
外相就任を依頼した鈴木貫太郎と東郷茂徳の間で、以下のやりとりが行われた。

東郷茂徳:
『じぶんとしては本戦争の発生を防止するため苦心を重ねてきたのだから、できるだけすみやかにこれが終結をはかることにはよろこんで尽力したいが、戦争の終結も指導も戦争の推移から割り出して考察する必要があると思うから、諾否を決する前にこんごの戦局の見通しについて、総理の意見をうけたまわりたい』
 
鈴木貫太郎:
『戦争は、なお二、三年はつづき得るものと思う』
 
東郷茂徳:
『近代戦における勝敗は、物資の消耗、すなわち生産の増否にかかわるところが大きく、この点からみても、もはや戦争の継続は困難で、今後一年もつづけることは不可能と確信する。
この点の見通しに総理との間に意見一致せざるにおいては、外交の重任を引き受くるも、こんごの一致協力ははなはだ困難であるので、せっかくの申し出もおことわりするほかない』

「大日本帝国最後の四か月」(著:迫水久常)

この後も、ふたりの間で押し問答が続いたが、夜もふけ鈴木貫太郎は疲労してきたので、再考を望むと述べて、わかれたのだった。

翌日の1945年4月8日、東郷茂徳は、岡田啓介・広田弘毅元首相・松平康昌内大臣秘書官長らからも、外相就任要請を受ける。
迫水書記官長からは、とにかくもう一度鈴木総理にあって欲しいと言われ、1945年4月9日に再度、首相官邸で東郷茂徳は鈴木貫太郎と会談する。

鈴木貫太郎:
『戦争見通しについてはあなたの考えどおりで結構であるし、外交はおよそあなたのお考えで動かしてほしい』

「大日本帝国最後の四か月」(著:迫水久常)

外交に関してはすべてお任せするということであった。

東郷茂徳は外務省の人事に関する希望を述べ、鈴木貫太郎から同意を得たので、外相就任を受諾した。

親任式後に就任したのは東郷外相のほか、満洲からの移動で遅れていた満鉄総裁の小日山直登、陸軍から遅れて国務大臣として選考された安井藤治中将、4月16日に総合計画局長官に就任した陸軍の秋永月三中将がいる。

鈴木貫太郎内閣の閣僚は以下の通り。
 
内閣総理大臣  鈴木貫太郎
外務大臣    東郷 茂徳(兼 大東亜大臣)
内務大臣    安倍 源基
大蔵大臣    広瀬 豊作
陸軍大臣    阿南 惟幾
海軍大臣    米内 光政
司法大臣    松阪 広政
文部大臣    太田 耕造
厚生大臣    岡田 忠彦
農商大臣    石黒 忠篤
軍需大臣    豊田 貞次郎
運輸通信大臣  小日山 直登
国務大臣    桜井 兵五郎
国務大臣    左近司 政三
国務大臣    安井 藤治
国務大臣    下村 宏(情報局総裁)
法制局長官   村瀬 直養
内閣書記官長  迫水 久常
綜合計画局長官 秋永 月三

「聖断」(著:半藤一利)によれば、親任式前の1945年4月6日に、『鈴木大将は日本にバドリオ政権の樹立を企図する算があるから、組閣を阻止しなければならない』と、憲兵司令官 大城戸三治 中将からの意見具申があったという。
バドリオ政権とは、イタリアでムッソリーニ政権を倒して、連合軍からの無条件降伏を受け入れたピエトロ・バドリオ内閣に由来するのだろうか。
「無条件降伏」政権ということを意味していると思われる。

現役陸軍将官による内閣発足を期待していた一部の将校・憲兵は、鈴木内閣が本土決戦を遂行するための内閣ではなく、無条件降伏を受け入れるための内閣ではないかと警戒していた。
(なお、意見具申を受けた陸軍 軍務局長は、これを単なる憶測として取り上げていない)

ここで、時間を少し遡る。

1945年(昭和20年)4月5日、モスクワでは午前11時(6時間の時差があるので、日本では同日午後5時)。

駐ソ日本大使館にソ連政府から、ある文書が届けられた。

それは、明年(1946年)4月期限満了となる日ソ中立条約の存続をしない(=日ソ中立条約の廃棄)旨を記載した通達であった。
廃棄が存続かの通告期限は、期限満了の前年の4月25日なので、期限よりも20日間早い。

佐藤大使はモロトフ外相と面会し、そのやりとりを日本に連絡する。

大本営 陸軍部 戦争指導班の参謀が記録している「機密戦争日誌」の4月7日には、モロトフの冷厳な態度からソ連は日本を准敵国視する腹づもり、といった分析が記載されている。


■引用・参考資料
 *1 「鈴木貫太郎伝」(著:鈴木貫太郎伝記編纂委員会)
 *2 「終戦の表情」 (著:鈴木貫太郎)
 *3 「大日本帝国最後の四か月」(著:迫水久常)
 *4 「宰相鈴木貫太郎の決断」(著:波多野澄雄)
 *5 「昭和天皇」 (著:古川隆久)
 *6 「聖断」 (著:半藤一利)
 *7 「興亡と夢」 (著:三好徹)
 *8 「玉音放送をプロデュースした男―下村宏」(著:坂本慎一)
 *9 「重光・東郷とその時代」 (著:岡崎久彦)
 *10「戦中派不戦日記」 (著:山田風太郎)
 *11「機密戦争日誌」 (著:大本営 陸軍部 戦争指導班)

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