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おたがいさま。


私は、言語が好きです。


大学で言語を勉強してたのに実は当時はあんまり自覚がなくて、気づいたのは結構遅かったけれど。でもよく考えたら日本語も英語も他の言語にも昔からいつも強い好奇心があったなと思います。

自分の母語である日本語は、大好き。

パッと浮かぶだけでも

歳をとる、じゃなくて歳を "重ねる" とか

雪化粧とか(きれいな誰かを思い出したのかな)

お陰様(陰に様つけるって発想すごい。謙虚 of 謙虚)

悲喜交交(こもごもって…もごもごしてていい。笑)

声色(最初に言った人は本当に色が見えたのかな?語感も気持ちいい)とか


ただ、たまに「やっぱり日本語って良いよね。英語にはない良さだよね」というニュアンスの言葉を聞くことがありますが、そういう時私はちょっとだけリアクションに困ります。笑

(もちろん↑の様に言う人が英語は美しくないと言ってるとは思ってないよ!私がそこから広げて考え過ぎなだけ笑)

なぜかというと、事実、曖昧な表現が多い日本語は表現の幅が多くて「本当日本語がベスト!!」と思うこともある反面、そう思ってた20歳の当時、恥ずかしいと思った経験があったから。


当時の私にとって英語はあくまで勉強の対象となるモノ。

「自分は英語が喋れない」という感覚が強かったから、ある意味異質なものとしてちゃんと意識的に捉えなければ!とカチコチに構えてる感覚。

したことないけど、実験のために何かを解剖してるみたいな感じで、脳内で単語や文法という単位で無機質的に扱って、分析して、勉強していました。(でも教材はいつも映画か音楽で、それを理解する自分の中にはちゃんと感情的な部分が存在していた。)


毎日必死だったそんなハタチの私は、旅の途中でワイルドで思慮深い、
台湾にルーツを持つ1人のアメリカ人の女の子と仲良くなります。

2カ月弱同じ家に住んでた彼女は、オレンジに輝く蝶が所狭しと描かれている、綺麗な分厚いノートを持っていた。

そしてひょんなことからその中の1ページを見せてくれた。

そこに書いてあったのがこの一説。

When we learn to tune in, the wonderful kaleidoscope of life evinces itself.  To tune into awareness is to tune out excessive thoughts. Focus so hard on the details of this experience that there's no room in your consciousness for fear or worry.

"気付く" ことができるようになってきたら、素晴らしい人生の万華鏡はその姿を表す。意識へと耳を傾けて波長を合わせることは、過度な思考の声を手放すこと。意識に "恐れ" や "不安" が入る隙がないくらいに、その経験の細部に意識を向けてみて。 

(日本語にすると意味はわかると思うけど響きはイマイチ…笑 好きな一説だけど!)

それまでも音楽やセリフに乗った英語に感動したことはあったけど、この時は今までとは違った感動と美しさを感じた。日本語に訳した言葉じゃなくて、ここで使われてるリズムや言葉選び、その調和がそのまま気持ちよく入ってきてくれた。読むより聞くのが得意な私にとっては、音の力なしに感動するのはとても大きなことだった。

「日本語にしかない良さ」「日本語にしかない美しさ」と言っていた時、私は少なくとも「日本語だけ=他の言語にはないだろう」というニュアンスを含んで言葉を発してしまっていた気がします。無意識に。

もちろん日本特有の良さはあって大好きだけれど、私はあまりにも他の言語の良さや美しさを知らなすぎた。

日本語もそうであるように、きっとその言語の話者ににいくら説明されたとしても 本当の意味で理解することのできない感覚や美しさが、それぞれの言語にあるのだろう。なんだ、美しいのはおたがいさまじゃないか!

そんな、自分の無知を知った日であり、一生かけても分からないであろう素晴らしさが 全ての言語にあるという、あまりの果てしなさに嬉しさと好奇心が増した日。そして何より母語以外の言語を心で感じることができた、という喜びの日でもありました。この快感がまた「もっともっと」とさせるのよね。



ちなみに私の中での "言語が話せる" の定義は

「その言葉を心から意味して、話し/聞いているかどうか」です。

例えば結構多くの人が「サンキュー!」とか「イェス!」って日常生活でも行ったことがあると思います。その時、「(えーと、ありがとうはたしかThank youだから…)サンキュー!」とは言ってないと思う。笑

言葉を発する瞬間と、気持ちと、意味が、ほぼ時差なくポン!と飛び出て「サンキュー!」になってるんじゃないかな。

そういう風に発せられる言葉が増えていく感覚が、言語を話せるようになるということだと私は思ってます。

それは発する時だけじゃなくて、入ってくる時も。自分の心と誰かの心が糸電話みたいに繋がって、言葉の振動と気持ちの温度をそのままの鮮度で受け取ったり渡したりできるかどうか。

"Thank you." って言われた時より「アリガト」って、カタコトでも日本語で言われるだけで笑顔になったことがある人もいるはず。

例えば旅先のスペインで、最初はただのカタカナの羅列にしか見えなかったけど、とりあえず何かと「グラシアス!(ありがとう)」って言ってたら旅の最終日には感謝の気持ちと同時に「グラシアス」と自然に口から出ていたり、

カタコトな日本語で話す友人が、母語を話し出したら水を得た魚みたいに生き生きとした顔して、ものすごいスピードで喋り倒したりするところを見たことある人もいるのでは?(もしくは、自分が英語で言えないことを日本語で言う時の「あーこれこれ!」っていう痒いとこに手が届く感とか)

ザックリだけどそんな感覚。

発音や知ってる単語の数も大事。でも歌の力を借りてみてもいいし、映画のロマンスに心を預けてみてもいいから、たまに自分はその言葉をどれだけ「意味することができてるか」って視点で聞いたり話してみてもおもしろいかも。そしたら意外と、話せないと思っていた言語もすんなりそのまま自分に飛び込んできてくれるかもしれない!

本気で意味した言葉ほどパワーのあるものはないし、そして何より気持ちや意味の込もった言葉を話してる人って、とってもいい顔してる。

何語話してても、いい顔してたいね!

image: unknown




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