父の生きた証は、ナポレオンフィッシュと兄と私
誰に訊いていいかわからないことが起きて、咄嗟に「兄に訊こう」と思った。
この異母兄と私は、親子ほども年齢が離れている。
でもかなり久しぶりに話しても、どうにか兄妹の体裁を取った会話が成り立っていたと思うので、正直ほっとした。だいぶ緊張したぞ。
おかげさまで今夜、私がバンドをやっていることが兄バレしたので、兄がここにたどり着く日もそう遠くないかも…うーん、ちょっと恥ずかしいなあ。
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兄に、私の母のことを訊かれた。ので、大雑把ながらだいぶ素直に話した。
「お前の母さん」と言われると、少し不思議になる。兄なのに、母は違う。私と兄は血がつながっているのに、母と兄とはただの他人。だからこそ私は、私が母を嫌っていることを隠さないで済む。
それでもうちの母を心配してくれる兄は、やっぱり父の息子なのだなあと思う。というか「私の兄」なんだな、が正しいかな。
私が大学に上がった年、初夏の頃だ。兄に、すすきののご飯屋さんに連れて行ってもらった。兄の行きつけのお店で、年取ったおばさんの作る定食屋さんといった感じだった様に覚えている。そこで、どこかの民家で出てきそうな、いかにも「おふくろの味」っぽいお食事をいただいた。
疑似体験したみたいな時間だったな、そう思う。兄と一緒に、兄の母の作る料理をごちそうになった、みたいな。
「大学、どう?」と訊かれて、大学のことじゃあなく、バイト先で年上のお兄さんに親切にしてもらってるよと答えたら、兄に軽く怒られた覚えがある。私にとってそれは、兄から「お兄さんらしさ」を感じた数少ない記憶のひとつになって心の箱の中にしまわれたのだった。
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今更なんだけど、一緒に過ごした時間なぞほぼほぼ無い兄妹関係なんですよ。こうして十年に一度くらい直接話す程度で、後は盆暮れ正月にバレンタインのやり取りをする、それだけの関係。そういった贈答以外の金銭面で云々とか、そういう関係性は今は皆無。それが絡むときっと、この兄妹関係は破綻するに違いない。
ただそれでも、兄と話し、自分が父の娘であることを実感できるだけで、私はだいぶ幸せになれる。
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昔、父と水族館に行った。父とした一泊二日の旅行の記憶は、この時と他にあと一回ほどしか無い。ずっと室蘭に行ったのだと信じ込んでいたけれど、その水族館というのが登別マリンパークニクスのはずなので、室蘭ではなく登別に行ったのが正しい記憶なのだろう。もしくは室蘭にも寄ったとか。
小学一年だったか二年だったか、それくらいだった私は、泊まったホテルの売店で、背中をつまむと「メェ!」と鳴くひつじのぬいぐるみを買ってもらった。
そのひつじ、メイちゃんを大事に抱えながら、私は水族館でナポレオンフィッシュを観た。他にどんな魚がいたか覚えていないのに、私はそのナポレオンフィッシュが、大きな水槽の中でじっと私を見つめている姿を、今でも鮮明に覚えている。
だからとび森をやっていても、なんとなく博物館のお魚ゾーンに行っては、ナポレオンフィッシュの前で立ち止まる。そしてそのまま、しばらくそこに居座るのだ。
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「母子家庭の女の子は、年上の男と付き合いがちって言うけど…」
当たってるねえ、と、その人は困った様に笑った。私が以前働いていた、整骨院のセンセイ。同じ年だけれど彼は既に学校へ行って資格を取っていて、おふざけを交えながら明るく患者さんに接し、いろんな人から信頼を得ている存在だった。
その時私は、夫と付き合い始めたばかりだった。でも8歳程度の歳の差なんて、父を求めて云々の心理には入らないでしょう、そう思った。そもそもうちの両親は16歳差、それを見て育っているから、8歳なんて両親のそれとはえらく違う、そんな風に思う。
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「まあ、母さんに会うかどうかは別として、帰ってきたら連絡ちょうだいよ。迎えに行くから」「うん、じゃあスープラに乗せてね」「否、あれは好きな女の子しか乗せないって決めてるんだ。だからクラウンで迎えに行くよ。」
…兄はそう言った。私は「ならクラウンで充分よ」と笑う。というかクラウンもあるのかよ!!さすがシャッチョーさん、兄の経営能力は、会社を潰しかけた父をはるかに上回って優秀だ。兄の学び舎である小樽商大、信頼できる大学だなあ…。
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この一週間ほど、ぎすぎすよぼよぼしていた心が少し、水を吸った花みたいに背筋を伸ばしたのがわかる。またすぐ萎れるかも知れないけれど、とりあえず故郷の北海道にも、私を出迎えてくれる場所はまだ残っているらしい。そのことが私の肥料となる。アンプル的な、あの先っちょを切って土に刺す緑の肥料だ。疲れてきたらそれを刺して、栄養を吸おう。
明日は久しぶりに仕事をオフにできそうだ。夕飯は福しんのチャーシューと餃子にして、
夜はとたけけのライブに行くぞ。