川越と中札内を繋ぐ画家
こんにちは、川越のご当地メタルバンド・ThickFog(シックフォグ)のVo.桃胡 雪です。
「川越の外から来た人間である私の視点で書く『川越』」シリーズも今回で六度目の更新となりました。いつも読みに来てくださいまして、本当にありがとうございます。あなたのお気に入りの「川越」は、見つかりましたでしょうか?
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「水曜どうでしょう」と「翔んで埼玉」
さて、先日「翔んで埼玉」が地上波でも放送されましたね。
この映画…埼玉県民になってまだ六年ほどの私でも、なんだか胸が熱くなりました…郷土愛、という言葉がいやがおうにも浮かびます。
そんな私がふと連想したのが「水曜どうでしょう」の存在でした。
北海道のローカル番組ながら、旅をメインとした様々な企画を行い、口コミやインターネットなどでファンを拡大した。レギュラー放送は2002年9月に終了したが、再放送である『どうでしょうリターンズ』・『水曜どうでしょうClassic』(水曜どうでしょうシリーズ参照)が今日でも各地で放送されており、2007年には全国47都道府県すべてで放送を達成した。—Wikipediaより引用
北海道出身の私にとって「水曜どうでしょう」は、身近な存在でもあり、他の都府県に誇る自慢でもあり、何より郷土愛そのもの、でありました。
「翔んで埼玉」への埼玉県民からの熱狂は、「水曜どうでしょう」への道民からの愛情に似ている気がします。そこに共通するのは郷土愛。郷土愛って多くの人の心にひっそりはぐくまれているモノなのでしょうね。
(ちなみに東京の「よそものばっちこい!」な姿勢も、おおらかさを感じ、私は大好きです。)
さて、ちょっとここで、一人の画家についてのお話を致しましょう。彼の名は相原求一朗。大正7年に川越の商家に生まれ、やがて北海道の風景を描くようになる洋画家です。
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扉を「閉ざさなかった」画家の人生
相原求一朗は前述のとおり、商家の長男という恵まれた環境に生まれました。しかし「恵まれた環境」とはあくまで外野の感想、絵の道に進みたかった求一朗は父親の逆鱗に触れ、美術学校への進学を諦め、家業を継ぐことを選びます。
やがて求一朗もまた、兵役に就くこととなりました。彼は旧満州やフィリピンでの戦いを経験します。フィリピンからの帰還途中、搭乗していた飛行機が沖縄沖に墜落し、重傷を負って漂流していたところを命からがら救出される経験すら味わいましたが、この経験が作画への憧憬を更に深めたとも言われています。
戦後は家業を再興させようと努力しますが、やはり絵の道への憧れを諦めきれなかった求一朗。日本橋で開かれていたデッサン研究会に参加し、そこで知り合った大国章夫という画家の紹介で、猪熊弦一郎に師事する運びとなります。
そこから求一朗の画家としての人生は、大きく拓かれてゆきました。
1950年には新制作派協会展(現新制作協会展)に初入選します。当時の作品からは、20世紀美術を代表する美術家のマチスやピカソの影響がうかがえます―川越市公式ホームページより引用
順調に見えた求一朗の画家人生でしたが、だんだんと制作に行き詰まってゆきます。そんなさなかの1961年、求一朗は北海道に写生旅行に出掛けました。そして北海道の壮美な風景に―自身の原風景とも感じる景色を見、絵画制作への糸口を見つけるのです。
以来、生涯にわたり北海道に足を運ぶこととなる求一朗。
1996年には北海道河西郡中札内村に、相原求一朗美術館が開館します。その3年後の99年、求一朗は80歳で亡くなりますが、2002年には故郷である川越に、求一朗の自作が寄贈された川越市立美術館が開館するのです。
…と、画家への夢への扉を閉ざさず、時間を掛けてその夢を叶えた相原求一朗の人生を大まかに語ってみましたが、相原求一朗美術館のある北海道の中札内村は、実は川越との姉妹友好都市盟約宣言を交わしているのです。
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花と緑とアートの村・中札内
中札内村(なかさつないむら)は、北海道十勝総合振興局にある村。北海道内の村の中で最も人口が多い。—Wikipediaより引用
人口約3900人の中札内村は、北海道の真ん中よりちょっと右下に位置し、帯広空港までは車で約10分の場所にあります。「花と緑とアートの村」を自ら呼称する中札内村は、その呼び名の通り、豊かな自然とアートに重きを置いた「観光」に力を入れていらっしゃいます。
川越市と中札内村とは、川越市の名誉市民である相原求一朗さんの作品を展示する「相原求一朗美術館」が中札内村に開館したときからその関係が生まれ、芸術を通じた市民交流や「川越市少年の翼」の派遣事業などが行われています。—川越市公式ホームページより引用
埼玉の街と北海道の村を繋いでいる絆は、一人の画家が紡いだものでありました。遠く離れた土地にはありますが、その絆を今もしっかりと撚っているのは、アートという存在。求一朗はアートを以て、二つの「郷土」に綱橋を架けてくれたのですね。
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終わりに
「翔んで埼玉」も「水曜どうでしょう」も、埼玉や北海道に土地勘の無い人にすら、その土地への興味を授けてくれるコンテンツであると思います。
そんなキラーコンテンツを生んだ土地の両方に所縁ある相原求一朗という存在、もっともっと知られていけばいいなあと感じています(美術にお詳しい方には、もうとっくに知られているのでしょうけども)。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!次回の更新も是非、読みにいらしてくださいね☆
☆参考資料☆
リンクを貼らせていただいた各サイト、Wikipedia
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