陽の降り注ぐあの窓辺で #同じテーマで小説を書こう

好きだった、彼女のことを。

けれどもそのことを認めてしまったら、今まで自分が積み重ねてきたいろんな生活のすべてがはらはらと崩れていってしまうのを、俺はちゃんと知っていた。

もう三年目にもなるバンドは、インディーズから一枚CDを出せたっきり、それもさして売れなかった。リーダーである以上は、それでも頑張って這い上がろうとするメンバーに対して、本当は全部重くってもう正直逃げ出してぇよ―なんて、心の奥底の、誰にもけして見えない様な、まして自分ですらなるべく見ない様にしている、鍵を掛けてまでして隠してある秘密の小箱に溜め込んだ本音なんて、絶対に絶対に、言えるわけが無かった。

たまたまライヴに来ていた可愛いコが、俺のことを好きになってくれたらしかった。よそのバンドも観ておくのが礼儀だと思っている俺が、演奏後の転換中、客席側に降りてきたところに声を掛けてくれた。凄く美人とかめちゃくちゃに可愛いとかそういうんじゃあ無かったけれど、目を細めて笑うところが、ごく素直な彼女の性格を物語っていて、その姿が俺に実家で飼っていた犬のチェリーを思い出させて、なんだか妙に、彼女のことが愛おしくなった。

上京してきた時に野郎三人でルームシェアしようと借りた、府中駅の近くの2LDKのマンションの一室は、部屋数だけは立派なものの、おんぼろどころでは無い建物だった。おまけに得体の知れないじいさんやばあさんも多く住んでいたし、こいつ絶対カタギじゃ無い、という雰囲気の人も暮らしていた。だから家賃も破格値だったけれど、さすがにそこに彼女を呼ぼうとは思えなかった。

だから彼女の住む、立川の外れの穏やかな住宅街の、小さくて古いけれどそれでも小綺麗なアパートで、二人はよくじゃれあった。安月給のバイトとバンド活動の繰り返しで、そんなに会う時間も作れない俺が、どうにか時間を工面してまでも会いたいのが彼女だった。彼女のふくよかでは無い胸は、それでも俺を抱いて安らぎを与えるには充分だった。何もかも置き去りにできる様な気すらした。よく洗われて常に白さを保つレースのカーテンから、柔らかく陽射しが降り注ぎ、二人の体を暖かく照らすのを、ずっと味わっていたいと本気で思った。彼女の肌が淡く薄く桃色に染まった姿は、この世の何よりも美しく見えた。

彼女はきっと、俺の弱さや、心の底に隠した箱の中身のことも、全部見透かしていたと思う。キリスト教の幼稚園に通っていた頃に見たマリア像の優しさは、彼女の醸し出すものとよく似ていた。俺はだんだん、そのことに怯えた。このままでは自分が、何もかも棄てて彼女の中に逃げ出してしまう様な、そんな気がしたのだ。

恋人同士であるという契りすら交わさなかった。何度も重ねた唇や体は、俺の性欲によるものと決めつけて、憎しみを抱いて欲しかった。

架空の彼女をでっちあげて、バレたからもう会えない、と別れを告げた。彼女は寂しそうにほほ笑んだ。敢えて俺の前で泣かないところが、余計に俺の心を締め付けた。あの美しい生き物がいつか他の男のものになってしまうことを、想像するだけで気が狂いそうだった。それでも、好きだなんて認めたくなかった。只の独占欲であって、子供がおもちゃを独り占めしたいのとさして変わらなかったのだと、そう信じていたかった。

以前は無理矢理に捻りだしていた分の時間が空いた。バイトも無い、スタジオ練習だけが夜に予定されている、そんな日の昼下がり、台所で換気扇を回して煙草を吸っていたら、そこの窓から入る陽射しがやけに優しくって、俺は途端にいつかの記憶を蘇らし、泣いた。右目から零れ落ちたしずくは、やがて左目からもほろりと滴った。

「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム」

「…何、それ?」、俺は、キッチンでスティックのココアを淹れながらそう呟いた彼女に、訊ねた。

「魔法の言葉だよ…本当はどこかの国のお料理の名前だってドキュメンタリー番組で言ってたけど、メリー・ポピンズのスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスみたいで、私、気に入ってるの」「…ごめん、俺、そのスーパー…なんとかっていうのも、わかんない」「えー、そっかぁ」

彼女の淹れたココアを、陽の注ぐベッドの上で、二人で飲んだ。甘ったるくって、幸せで。この時間が永遠に続くことを、俺は、本当は、望んでいたはずだった。俺が見ようとしなかったのは、箱に閉じ込めたのはきっと、こっちだ。このささやかな幸せこそ、俺の、本当の—。

俺は無様な姿のまま、煙草を吸い続けた。涙はまだ、止まりそうに無い。

君はあの魔法の言葉に、いったい何を望んでいたんだろう。


たまたまお見かけして心惹かれてしまった、杉本しほ様による「  #同じテーマで小説を書こう 」という企画に参加させていただきました。素敵な企画をありがとうございます。見ず知らずの者がいきなし参加して、ごめんなさい…。


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桃胡雪(みるくゆき)
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