【24冊目】ブックセラーズ・ダイアリー / ショーン・バイセル
9月最終週のスタートです。
当店は休業中です。
着々と再開に向けて動き出しておりますね。時に大胆に、時に慎重に、はっきりもっと勇敢になっていけないと思うわけなんですがね。とはいえ仕込みなんていうのは、そんな3日も4日も前に出来るわけではないものですから。結局最後の1日2日がばたばたするのかな、なんて思うわけなんですね。するってぇと10月1日は金曜日だっていうじゃないですか。華金なんていって、そのまま土日に突入すると、土日の営業時間もどうしようかな。昼営業はやるべきかな、など考えるのだけど、現状、未だ時短の有無など不透明なところが多く、つまり営業時間を決めてかかるにはまだ材料が足りない。そんな中で、いまのうちにやるべきことというのも確かにあって、つまりは当店月初のお決まり「ウィグタウン読書部」をいまのうちに終わらせておくとかですかね。やっていきましょう。
というわけで、今月の課題図書はショーン・バイセルの『ブックセラーズ・ダイアリー』。ご存知当店の名の由来となったスコットランドの町にある、古書店の主人が書いた営業日誌風エッセイ。なので、当然といえば当然なんですけれど、本書の中にはたくさん「ウィグタウン」という単語が出てきて、まぁ、あほらしいようなことではありますが、私なんかはその単語が出るたびにドキドキする。なんかとっても身近に感じてしまう。親近感が沸きまくる。当然、当店のお客さんもこの単語には馴染みがあるわけで、おそらくはにやりにやにやりとしながら読まれた方も多かったんじゃないかと思いますがね。そういうバイアスがかかっているのかもしれませんが、単純にすごくいい本でしたね。読んでいきましょう。
さて、本題に入る前に一つ私の好きな言葉を紹介しようと思うのですがね。これは確か第99回文學界新人賞における島田雅彦さんの選評にあった言葉だったかと思うのですが、曰く「作家になれない人が編集者になる。編集者になれない人が書店員になる。そして、書店員になれない人が小説を書くんだ」と。クリエイターというものにヒエラルキーがあるのであれば、一次産業から二次三次と卸していくに従って、社会的な立場は弱くなっていく。しかし、その最底辺にいるやつらだからこそ、クリエイションというのは輝く可能性がある。なんていうメイクドラマを感じさせる言葉で、非常に感銘を受けたわけなんですがね。今作の主人公たる古書店の主人なんかは、まさしくこの「書店員(それも風変わりな)」であり「作家」なわけですから、なにかこの言葉を思い出したわけなんですよね。極端な人というのは面白いものですよね。以下、例によって【ネタバレ注意!】となるので、未読の方はご留意されたし。
まぁ【ネタバレ注意!】といったところで、本作が描くのはまさしく「古書店の日常」で、ネタバレを嫌うような性質のものでもないかとは思うのですがね。冒頭、ジョージ・オーウェル(同じく古書店に勤務していた経験あり)の言葉「ここへ来る客はどんな場所でも厄介者と見られただろうが、本屋では格別不愉快にふるまう機会を与えられていた」が紹介されている通り、本書に登場するお客さん(正確には商品を買わずに帰る人も多いので「お客さん未満」も含めて)は、どこかクセのある人が多い。これは酒場でなぜか誇らしげに語られることが多い「ウチは変わったお客さんばっかりだから」(決まって店の人間かごく近い常連が、最近来はじめたお客さんに向けて吐く)と同じようなところがあり、これというのは、人というのは誰もが個性を持っているので当然であって「変人揃いの客たち」というキャプションには些か違和感を覚える。当然そこには作家のユニークな着眼点や、会話の絶妙な間の取り方(翻訳素晴らしい)があるのだが、誰しも奇人変人に仕立ててしまう作者の視点は全くもってよくできた皮肉精神とブラックユーモアの賜物である。「どこにでもいる奴なんて、どこにもいねー」とは日本の三人組ロックバンドTheピーズが歌ったことであるが、まさしくその通りで、私なんかも、仮に当店のお客さんたちをこうした視点で描いたら、嘘一つつくことなく変人に仕立てることができるかな、など考えると、やはりそれは難しいような気もして、となるとやはり作者の視点というのは素晴らしいものがある。例えば、彼はお店のFacebook運用についてこんなことを言っている。「四年前に店のフェイスブック・アカウントを作ったとき、ぼくは他の本屋のページをあれこれ調べてみた。内容はほぼ無味乾燥で、本屋で働くことのおぞましさや至福の喜びについては何も伝えていないものばかりだった。だからぼくは計算づくでリスクを取ろうと決め、客の行動、それもとくにアホな質問とか無礼なコメントに焦点を当てることにしたのだ」と。このコメントなんかに私なんかは思わず膝を打ってしまうところがあり、というのも、当店のフェイスブック運用も少しく似通った履歴を辿るもので、つまりは最初は何も面白いものではなかった。まさしく「ビジネスページ」という具合で、新商品の紹介を主なコンテンツとした、まさしく「無味乾燥」なものだった。私自身、当初から「なんもおもんない」など思いながら「まぁ少しでも集客に役立てば」くらいの気持ちで運営していたのだが、やはりあまり乗り気ではない。ある時、急に「やるからには徹底的に」とのスローガンを思い出し、それまで思いついた時のみに投稿していたフェイスブックを、毎日投稿のものに変え、その辺りから厳畯な印象を取り払った。ビジネスというものからなるべく遠いような投稿を続け、そのあたりの精神性は現在の「ウィグタウン通信」などにも引き継がれていると思う。作中の店主と圧倒的に違うのは、お客さんとのやりとりを載せないということだろうか。それが良いものであれ悪いものであれ、極力避けるようにしている私の運用と裏腹に、彼は積極的に「リスクをとって」おり、その着眼点と切り取り方は、まさしく名人芸と称賛するレベルで、大変に心地よい。ぜひ実際にお店に行ってみて、ちょっとちょっかいかけて、なんて言われるのかワクワクしたいものである。
そんなお客さんとの切った張ったが楽しめる本書であるが、そのやりとりの素晴らしさもさることながら、随所に見られる本に対する愛が非常に心地よい作品でもある。なぜ本が好きか、もう少し踏み込んでいえば、なぜ本が好きな人が好きか、が詰まっている。私の場合、本とは主に小説のことを指すのだけれど、私がなぜ本を読むのかというと、なにも新しい知見を得たいとか、賢くなりたいとかではなく、自分ではない他の誰かの人生を追体験したいからかもしれない。「その人の本棚を見れば、その人の人格が分かる」とは、ともすればブックハラスメントになってしまいそうな真理ではあるが、そういう意味で本書はまさしく読者を、スコットランドの田舎町にある古書店の主人に変えてしまう力を持っている。日々のお客さんを相手にし、口の減らないスタッフに振り回され、看板猫を愛で、その合間に本を読んだり酒を飲んだりして過ごす。作中に何度かオーウェルの言葉などで紹介されている、いわゆる「物静かで上品」な古書店のイメージとはかけ離れているのは間違いないが、この偏屈な古書店主像というのもまた、とんでもなく魅力に溢れている。今作は本屋という舞台設定故に、様々な書籍が登場し、引用や暗誦なども多いのだが、そのネタ元を検索かけながら読んでいくのはとても楽しかった。私は昔、電子辞書を片手に本を読むのが好きだった。分からない語を引きながら読んでいくことは、そのまま新しい地平を切り拓いていく行為とイコールだった。話は逸れるようだが、私は最近「調べる」という言葉がずいぶん軽くなってしまったなと思う。というか「検索する」という言葉の誤用として使用する人が増えたと思う。分からないことをその場で「検索」して「調べた」と言ってしまうような行為に、私自身も気を付けなくてはいけないなどと思っているのだけれど、本書の主人が見せる一つ一つのユーモアやウィットは、そっくりそのまま「検索時代」のアンチテーゼとしても作用するように感じる。キンドルやアマゾンが全て悪いとは言わないけれど、一つ、「検索」の便利さは「調べる」という行為の品位を著しく貶めたというのは間違いないだろう。「調べる」ことは面倒臭いし、無駄も多い。その無駄こそがある意味では「調べる」ことの本質ともいえるのであって、そんな無駄に溢れているからこそ、人は本屋を愛しているのではないかと思う。本書には、作者がキンドルをショットガンで粉々に撃ち砕くシーンがあるが、このシーンなんかは合理化に対するアンチテーゼですよね。まぁ、単に巨大な商売敵に対する怨嗟の想いかもしれませんが。
また、本書の醍醐味でもあるお客さんとの(或いは、お客さんの)ログであるけれど、やはり印象的なものが多いですね。個人的には、買取に行った先で出会った、元南極調査隊の老人のエピソードや、古いエロ本(尊敬を込めて作中の表現を用います)を持ち込んできた老婆が、帰り際に「この本のモデルのうち、どれがわたしだか当てられるかしら」と言い残して去っていったエピソードなんかは大好きですね。エロ本を持ち込んだ老婆の人生がたった一言でものすごく奥行きのあるものになる。すごいなって思いますよね。また、スタッフのニッキーに言い寄るために店に顔を出していた香水男、スメリー・ケリーの顛末と、それに対するニッキーの態度なんかも、なんというか、この街の人々を生き生きと描き出すエピソードですよね。確かにこういう人が遠い異国の地に居たんだな、と思わせる素晴らしいエピソードだと思います。
さて、当店はウィグタウンという看板を掲げて営業しているのですがね。これは、わたしが訪れた2012年当時、スコットランドの全ての町の中でも印象に残った町がここだったから、というのに由来しているんですがね。それは、本書の中で、スコットランド観光協会がこのエリアを無視していることに触れて「ウィグタウンはスコットランドの忘れられた片隅」と表現していることや、ガーディアン紙が同町を評して「ここは最高の意味での田舎」とコメントしているところからも、なんとなくわたしが感じたこの町の良さを想像していただきたいと思います。すごくいい町だったんですよね。ぜひ、本当に田舎で何もないんですけど、スコットランドに行くことがあれば寄ってみてくださいませ。ブックショップも忘れずにですね。
一年を通じて古書店の日常を描いた今作だが、日常を描いている作品の本分として、大きなドラマは起きない。ラストに向かうに従っての盛り上がりもなければ、大どんでん返しもないわけなんですが、それゆえ、いつでも思いついた時に気軽に読めるというのがいいところだと思う。私も、一応一ヶ月で読み終えて感想文書かなきゃいけないというのがあるので、一月で読み上げたわけだけれど、そういう事情がなければ、それこそ一年かけてじっくり読んでもいいくらいだと感じました。読みながら、ひとつ「ウイスキーと読書は似ているかもしれない」など思いましたね。どちらも好みがあり、そしてその好みを見つけるまでには少し時間がかかる。ビターに感じた味わいも、時を重ねれば陶酔を与えるものになるのだ。
作中、暇な冬の一月に、ヒップホップのドクラシック『Rapper's Delight』の替え歌を作ろうというアイデアが持ち上がる。完成した『Reader's Delight』はYouTubeで動画が上がっていたのでぜひチェキしていただきたい。本書のエンディング・テーマとして、これ以上に優れたものはないだろう。彼らは今日も、ウィグタウンの町でこのような生活を送っているのだろう。知識をひけらかしに来る人や、Amazonの下見のため来る人、そしてモリソンズの「ごちそう金曜日」とともに。
というわけで、9月の課題図書はショーン・バイセル『ブックセラーズ・ダイアリー』でした。作中に出てきた様々な作品も気になる所なのですが、来月は邦書のターンですからね。9月はそのルールを破ってしまったので、来月は従いましょう。というわけで10月は横光利一『機械』です。振り幅ってやつを大事にしたいと思ってます。読んでいきましょう。