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よゐこのポストモダンの共産主義

共産主義の胎内記憶

 お笑いにおいて80年代とはダウンタウンの時代であった。それはまさしく近代の完成でもあった。彼らが徒弟制という前近代を超克したNSC、その一期生であることは偶然ではない。だからこそ82年にデビューした2人は、恐るべき速さで関西においてスターとなった。当時、漫才ブームの真っ只中、流行りはB&B、ツービート、島田紳助・松本竜介に代表されるボケが凄まじい速さで喋り倒す芸風で、漫才は爛熟の時を迎えていた。しかしその渦中に現れた2人。その芸風は流行りとは真逆に等しい程に乖離していた。ゆったりと喋る松本に怒鳴り散らす浜田。私服で台本すら無いままに漫才に挑む。そうした彼らの姿は衝撃的であったはずだ。瞬く間に主流は全体の流れだけ事前に共有し、ぶっつけ本番で行われる漫才へと変わっていった。こうした彼らの影響は漫才の変革を要請しただけに留まらずコント、そしてテレビそのものを即興主体へと変えた。
 コントはそれまでのよしもと新喜劇のような一言一句決まった台本と徹底した稽古の下、行われる形ではなく、設定と流れを口頭で共有した上で舞台に立つ。こうした即興主体で進めて行く形に。テレビ番組なども一言一句決まった形ではなく、テーマを据えてフリートークを入れる形へとシフトして行く。それが純粋なお笑い番組である必要性を減らし、情報バラエティの隆盛に貢献したこともまた事実である。こういった話は関西ローカルに限らず、89年の東京進出以後全国ネットにまで広がり、さらには日本放送協会(NHK)も95年にゲストには台本や事前アンケート、打ち合わせすらなくテーマのみ伝え、後はぶっつけ本番といった形で『ためしてガッテン』を放送開始している。
 このように日本全国に即興というドグマが波及する中、現れたのがよゐこであった。90年に結成した2人はシュールコントの元祖とも呼ばれ、彼らの芸風はそれまでとは一線を画すものであった。特にコントにおいて顕著にみられるツッコミの不在が明確に彼らを異端とした。吉本のダウンタウンは即興、または即興でなくともそのような弛緩した間を主体としつつ、ツッコミを入れることによって間を持たすのに対し、松竹のよゐこはツッコミが無いため間の緩みを分かつものが無いままに終わる。そこに棒読みが拍車をかける。このような芸風は革新的なものであった。こうしてよゐこに続くようにして93年にバナナマン、94年に野性爆弾、96年にラーメンズ、98年にロバート、2000年に笑い飯、2004年に天竺鼠といったツッコミの無い、またははっきりしないお笑いコンビが多く現れた。
 が、しかしお笑いにおいて90年代とはよゐこの時代であった、と断言する者は少ないに相違ない。

憑在論としてのボケ

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 よゐこはデビュー後、すぐさま関西ローカルのバラエティ番組に出演が叶うも、芸風があまり受け入れられず、東京進出を早々に果たす。進出後は若手によるコントを中心に据えた番組『とぶくすり』(多くのメンバーが『めちゃ×2イケてるッ!』に引き継がれる)などで知られ、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』、『めちゃ×2イケてるッ!』といった番組で瞬く間に有名人となる。こうしてその後も多くの番組に出演を果たすが、長期的な人気を得た芸人の多くが同時代的に増加していった情報バラエティなどで、司会や雛壇で活躍する道筋を彼らが進むことは無かった。 
 それは、テレビ番組、特にトーク番組の構造自体が彼らの芸風と相反するものだからである。テレビにおいてトーク番組の多くが司会と雛壇芸人を有し、司会は芸人の場合、多くが普段ツッコミを担当する芸人が務める。こうして多くのトーク番組は雛壇の会話に対し、司会が少し距離を置いて番組の進行に尽力する構図となる。その決められたポジショニングの下に会話する様はボケとツッコミのようである。このトーク番組の司会と雛壇は、テレビ番組、特にトーク番組において浸透したダウンタウンが提示した即興においても尚、普段の会話との違いを露呈する。そのため司会と雛壇、そのツッコミとボケに比する関係性もダウンタウンの構造に依るものといえる。
 そもそもボケとツッコミという構図はボケのとぼけた所作や冗談に対し、ツッコミが間違いを指摘することで正しさを演じ、間を上手く取り繕うことに主眼が置かれる。このようにある種ツッコミはボケの視座に対し、俯瞰するような超越的視点を持っているといえる。このボケとツッコミの関係性がそのままに雛壇と司会に映る。そう考えた場合、ツッコミの無いお笑いを主眼としたよゐこがツッコミ=司会を要請するテレビ番組、特にトーク番組を主として活動することが無かったのは必然である。
 またさらにツッコミの不在はボケの様態をも根本的に変えた。それまでのボケは観客に届ける以前に、ツッコミに届けていた。そこでは観客に届かないかもしれないことと、間違ったところに届く可能性は押さえ込まれる。つまり「誤配」されない。対してツッコミというボケを届ける明確な相手を失った時、ボケは「亡霊」としかいいようのない相手に向かってボケる。それこそが「誤配」を生む。

すなわち、この亡霊的な別の誰かはわれわれを眼差しておる、われわれは<その者>によって眼差されているのを感じている。その者は(一世代程度、あるいは一世代以上であることもある)絶対的な先行性および非対称性にしたがって、また統御することが絶対的に不可能であるような不均衡にしたがって、一切の共時性の外側から、われわれ側から向けることのできる一切の眼差し以前から、そしてその彼方から、われわれを眼差しているのだ。ここでは錯時性の法が支配している。眼差しを交えることが常に不可能であり続けるような眼差しによって見つめられていると感じること、これこそわれわれがそこから法を相続しているバイザー効果なのである。誰がわれわれを見、誰が法を制定しているのかわれわれには見えず、誰が厳命を――そもそも逆説的な厳命を――発し、誰が『誓え』と厳命しているかが見えないので、われわれはまったき確信をもってその<誰か>の正体を明らかにすることができず、ひたすらその声に身を委ねざるをえない。デリダ『マルクスの亡霊たち』

 こうしたツッコミの不在により苦難した芸人はよゐこだけに留まらず、数多く存在する。
 まずバナナマン。彼らは舞台において演劇的で長大なコントを多く披露しているが、どれもボケ、ツッコミともに曖昧である。が、テレビにおいては日村がボケ、設楽がツッコミを演じており、舞台とは全く違う姿を見せる。また、彼らの即興コントやバナナ炎のフリートークをみるに、ダウンタウンの正当な後継者としての側面も持ちあわせているように思う。こうした両生類的、または分裂症的態度がバナナマンの広い人気の支柱を成している。
 またそのバナナマンを尊敬し、genicoや君の席としてバナナマンとユニットを組んだ過去を持つラーメンズ。彼らもボケとツッコミといった分担が無いが、自ら舞台を主眼に据えていることもあって雛壇芸人などとしてテレビに顔を出すことは少ない。
 その他も大体同じようなので割愛するが、このように90年代のお笑いにテレビの想像力は明らかに引けをとっていた。このような状況を変えたのがワイプである。

テレビとゲーム的リアリズム

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 そもそもワイプは昔からテレビで時折みられる手法ではあったが、現在のように多用されるきっかけとなったのは『世界まる見え』である。1990年に放送開始された同番組は世界中の様々な番組をジャンル問わず放送し、VTRの合間にスタジオでトークを行う形式をとっていた。これは89年、ダウンタウンの東京進出以後に広まった即興のドグマ。それに至極真っ当に従った結果として増加した情報バラエティの決定版とも呼べる完成度を誇るが、情報バラエティの多くが抱える問題として長尺のVTRを放送する場合、視聴者がどのような番組か判別する術がないというのがある。これを解決するために当時のプロデューサーである吉川圭三が活用したのがワイプである。
 この長尺のVTRをどうしてもそのまま放送したいがために生まれたワイプは、瞬く間に多くのテレビ番組に普及する。そうした動向以後、テレビに現れたのが上述の野性爆弾である。彼らはツッコミを担当しているロッシーが天然ボケとも称されるように、濱口と同じくあまりツッコミとして機能していない。テレビにおいては2000年代中盤から冠番組の『野爆テレビ』以外ではロケ番組を中心に活躍する。そのロケ番組というのも、番組のコーナーなどで常にスタジオがロケのVTRを鑑賞する形式を取っている。このスタジオの見る、話すという行為がワイプを通してロケに干渉することで、映像自体にツッコミが無くとも、スタジオがボケとツッコミという構造を作り出している(今現在も『野性爆弾のザ・ワールド チャネリング』において同じような形式がとられている)。
 この構造を徹底的に突き詰め、ダウンタウン以後の即興と合わせてある種の完成をみたのが、『そんなバカなマン』における「パシフィック・ヒム」である。毎回女性モデルをゲストにロケをする日村は、映画『パシフィック・リム』のロボットのようにロケバスから遠隔で操作される。ここではゲストが芸人ではないことから大陸と大洋に重なるボケとツッコミといった対立は存在しない。また操作することでスタジオにあたるロケバスの権力は絶対的な「生権力」としてあらわれる。
 このような「生権力」はワイプの原点である『世界まる見え』もまた同様に有している。同番組において”世界”と題されるように、スタジオにとってVTRとは閉鎖された空間から”見え”るただ一つの外であり世界となる。またこの構造自体が番組のロゴの望遠鏡、そしてVTR=映像の構造に重なることは、原点にあるカメラ・オブスクラを考えれば必然である。このようにロケはVTRという形式によって、スタジオにとって過去についての現在となるがゆえに監視され、監獄、特にパノプティコンのような非対称な関係に置かれる。ワイプとはこの非対称性に拍車をかけるようにして、スタジオ側がロケを常に監視できる超越的視点としての地位を与えてしまった。それゆえにロケによるルールの複数性はスタジオによりボケとツッコミという単一のルールに後退してしまう。
 こうしたことからも分かるようにテレビはツッコミ、司会、ワイプなどによって超越的視点を有すること。つまり近代的主体を演者に要請してきた。これはテレビが近代に発明されたことにも由来するであろう。さらにこの近代的主体を確立する。つまりテレビが大人に成るための啓蒙的な役割を担ったこともまた確かであろう。であるならばこのような大人を打破するのは何か。それは子供である。

月の住民を待ちながら

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(前略)最近面白かった映画に『マン・オン・ザ・ムーン』というのがあるんです。これはまさにカントの「月の住民」の一節を基にしているとしか思えない映画で、ジム・キャリーがアンディ・カウフマンという伝説的な天才的コメディアンを演じている。カウフマンというのは多重人格的なコンセプチュアルな芸でカリスマ的な人気があった。当然お笑いというものは、文字通り受けたか受けないか、エフェクト(効果=結果)で理解される。ところがカウフマンはそのエフェクトよりも、お笑いというゲームのルールを変更することにこそ関心があった。まったく理解され得ない、本人が面白いだけとしかいえないような前衛的な受けない芸にどんどんなって行く。シミュレーション、ニセモノばかりの世界の中で、世界のルールが変更できるということを見つけることは、唯一の希望なのだというんですね。マン・オン・ザ・ムーンというのは超越論的な主体Xなわけですね。まさにR.E.M.が唄っていた主題歌どおりに“The Great Beyond”なわけです。実際は存在しないし、知覚もできないけど、それ=ホンモノがいるものとして行動しろというのがカウフマンにとっての命題であって、それが面白い。カントの命題とまったく同じだといっていい。
岡崎乾二郎『ルネサンス  経験の条件』

 よゐこ以後はそれまでのツッコミに伴って成立していたボケを、月の住民=超越論的仮象を想定することでツッコミの不在を実現した。しかしテレビはツッコミ、司会、ワイプといった大人の所作を要請した。であるがゆえにこれらを必要としない子供向けお笑い番組、または子供向け番組でのお笑い芸人の起用が2000年代に急増する。それに先駆した形で放送開始したのが『おはスタ』である。1997年の放送開始当初からお笑い芸人をレギュラーに迎え、2000年にはよゐこ、2009年に野性爆弾、2015年よりロバートなどその他にも数多くの芸人を支えてきた『おはスタ』は芸人の人気にも寄与してきた。その後、よゐこの有野は2003年から『ゲームセンターCX』、濱口は2005年から『Disney Time』でレギュラーとなり、ロバートは2004年から『ポケモンサンデー』でレギュラーとなる。今現在もよゐこはYoutuberとして、ロバートはAbemaTVでの『おはようロバート』で子供向けの放送を行なっている。また2009年には同じようにツッコミが判然としないはんにゃとフルーツポンチによる『ピラメキーノ』が放送開始し、特にはんにゃの金田は子供の絶大な人気を得ていた。
 こうしてツッコミが不在、または判然としないコンビの多くが子供向け番組に起用され、テレビ番組において出演の機会を増やしていく。がしかしそのコンビの中には子供向け番組の終了を以ってテレビから姿を消していった者がいたこともまた事実である。
 さて、こうして90年代にワイプのあるロケ、2000年代に子供向け番組といったツッコミを必要としない場が増える中、その2つの性格を兼ね備えた番組が生まれる。それが『よゐこの無人島0円生活』である。

忘却の明るい島

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経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。祈祷とかそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、わがロビンソンはそれを楽しみにし、この種の活動を保養だと思っているからである。
マルクス『資本論』

『よゐこの無人島0円生活』とは『いきなり!黄金伝説。』のコーナーとして2004年より放送開始した。外部から閉ざされた空間を形成する無人島での生活は、全員が等しい条件下に晒されるがゆえにツッコミのような超越的視点は生まれ難く、よゐこには絶好の場であった。そこで行われる労働は純粋に商品の使用価値を生み出す具体的有用労働であり、ボケはお笑いの使用価値、笑いを生み出すことから、過酷な状況下での保養という側面を強め、具体的有用労働として現る。それに加えて番組内での濱口の「獲ったどー‼︎」という「叫び」は子供をはじめとして流行し、子供の視聴者をも獲得することで子供番組としての側面もある。そこに放送ではスタジオから見る顔。ワイプが付され、テレビの形式が要請する近代的主体も確保し、大人を見る子供という非対称な関係性を形成する。また『いきなり!黄金伝説。』は吉本が制作に関与する番組で、松竹芸能所属のタレントがレギュラー・準レギュラー出演をする最初期の番組でもある。そこで『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』においてダウンタウンと長年共演しているココリコが司会であることは、非常に示唆的である。つまりロケのよゐこ以後、松竹の空間は、スタジオのダウンタウン以後、吉本の空間に回収されている。さらには一時期よりスタジオの観覧者による投票で順位を付すといったスタジオのタレントに対するVTRを、視聴者に対するテレビに比したメタ的な構造を採用するようになる。以上の構造によって無人島での共産主義的なルールの複数性は、よりランキングという競争をはじめとした資本主義的な単一のルールに還元される。
 これは現実においても同様の事例が確認できる。

自らを国家から差し引き、その領域外に「解放区」を生みだすプロセスは、資本家に専有されてきた。このグローバル資本主義の論理の最たるものが、いわゆる「経済特区」だ。たいがい第三世界で、海外からの投資を増やすために国家基準より自由な経済法規をもつ(たとえば、低い関税率、資本の自由な流通、労働組合の制限もしくは禁止、最低労働時間なし、などを可能にする)地域である。
この呼称自体が、多様な地区のより具体的な対応を示している。自由貿易区、輸出加工区、自由地帯、工業団地、自由港、都市事業ゾーン、等々。これらに特有の「開放性」(国家統制を免れた自由な空間)と閉鎖性(法が保証する自由によって妨げられない労働条件の強制)の組み合わせは搾取の程度を高めるおそれがある。
スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』

 その無人島0円生活の完成形とも言うべき企画『隣どうしの島でシャッフルサバイバル生活』は2009年に放送された。番組歴代最高視聴率の19.6%を記録した当番組は、それまでの無人島0円生活とは違い、隣り合う島によゐことタカアンドトシの2組が相方を入れ替え生活する形で行われ、2組はそれぞれに孤立した形で生活を始める。しかしやがて一方が双眼鏡で相手方の生活を盗み見ること。窃視が行われたことから孤立した環境は破壊される。この窃視、即ち近代的主体の条件が子供を擁護し得たロケにおいて発生したのは、スタジオ=資本主義による支配下ゆえに分断された環境の違う二島が、観覧者である一般女性100人の投票によって競争原理を強いられたがためである。このように資本主義下での共産主義は支配、つまり超越的視点の忘却において成立しており、資本主義の本格的な介入によって容易く崩れ去る。
 こうして共産主義の崩壊後において二島に横たわる経済活動は行き来(観光)といった資本主義的なものにまで広がる。番組において濱口、タカのチームは有野、トシのチームの拠点を覗き見、侵入、そして食事を盗み食いした上、ドラム缶風呂までをも勝手に使用するが、その末に濱口は自責の念でモリ突きによって得た魚を有野、トシに渡す。それはまずもって資本主義的な交換、またはキリスト教的罪の意識によるものともいえるが、これは盗みと贈与の反復とも捉え得る。つぎに濱口、タカは有野、トシを迎えるパーティーを行うが、つぎに濱口、タカは有野、トシを迎えるパーティーを行う。ここでの出迎えをして共に同じものを分け合う行為に、平時の状態とは断絶された一種の祭り、聖なる時間が勃興する。この社会の外に拡がる世界において現る享楽には、平時の資本主義以外の政治・経済的な制度を想像することのできない状態、即ち資本主義リアリズムとは反対に、共産主義以外の政治・経済的な制度を想像することのできない状態、即ち共産主義リアリズムがある。この共産主義リアリズムにおいて与えることはもはや資本主義的交換の意味をなさず、絶対的贈与として立ち現れる。
 その姿がロケを超越的視点から見るスタジオのタレント、観覧者(一般女性のみであることから、タレントの男性であるよゐこ、タカアンドトシに対して他者としてある)自体の意識をも変容させる。それはランキング順位の低かった濱口、タカの投票数が増大することに如実にあらわれている。がしかしそれと同時にこうした事態は競争という資本主義リアリズムによる支配を忘却すること、つまりロケにおいては無人島の外部である海からの視点を忘却することによって成立しており、そのことで資本主義の構造はより強固になる。またこれは『世界まる見え』におけるワイプが、そしてトシによるツッコミの決め台詞「欧米か!」が、絶対的外部にあるはずの海外からの超越的視点を日本に取り込む、または忘却させることと同じである。こうした忘却の先に無人島、または日本は社会から世界(番組内における発言によれば地球)へ、暗い部屋から明るい島へと変貌する。
 斯くして、超越的視点としての他者、すなわち「大文字の他者」の忘却は平成の日本において顕在化したのである。
 今現在、令和においてここで扱ったよゐこやロバートをはじめとした多くの芸人はインターネットに活動の場を見出しており、ラーメンズなどはコント映像100本をYoutubeに無料公開までしているが、それもこれまでの論考からすれば当然で、インターネットはカリフォルニアン・イデオロギーに代表される資本主義の支配下における共産主義によって発展してきたがためによゐこ以後のお笑い、ましてや平成の無意識はインターネットに非常に親和性が高い。
 しかしニコニコ、Youtubeライブなどにおいてはワイプとは違い、同時的に双方向の対話が可能であることから、資本主義下にあると同時に隘路を抜ける可能性をも持っている。以上からお笑いの未来はインターネットをどう扱うかに懸かっているといえる。
 しかしそこで、実際に「大文字の他者」を忘却することなくお笑いを続けている者は誰か。それはもちろん、松竹芸能で2010年に結成した女性コンビ、Aマッソにほかならない。

濱口:どうですか我々の島の居心地は。お二人
トシ:最低に決まってるでしょ
タカ:祭典?お祭りってことですか?
濱口:お祭り気分で
有野:催し的なことじゃない?
タカ:祭典っていいましたけども
トシ:最低って言ったんだよ。ある意味お祭り騒ぎだけどなこれ
タカ、濱口:ご冗談が
トシ:ご冗談がじゃねえよ
雨足が強くなる
濱口:ほら地球が感謝してるよ
タカ:はぁ地球の恵みよ
濱口:ありがとう!我ら4人地球人だ!
タカ:地球人だ!
『隣どうしの島でシャッフルサバイバル生活』

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