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徳富蘇峰と民俗学研究者の意外な(?)交流―柳田国男と本山桂川の場合

 明治・大正・昭和に活動していた言論人・徳富蘇峰は書簡のやり取りを頻繁に行っていたことが知られている。神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、約46,000通もの書簡が保存されており、日本の近代史の研究を進める上で貴重な資料になっている。また、この膨大な数の書簡は蘇峰の交流や関心の広さを示すことにもなっている。

 蘇峰は後に民俗学の先行者となる柳田国男とも交流があったことが知られている。柳田は若い時に詩人としても活動していたことが知られているが、蘇峰の民友社から発行されていた『国民之友』に短歌や詩を発表したり、共同編集で『抒情詩』を出版したりしていた。(注1)『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』高野静子によると、柳田は『甲寅叢書』を出版する際にアドヴァイスをして欲しいと蘇峰に相談している。柳田は出版事業に関して先輩である蘇峰を頼っていたことが分かる。

 他にも交流のあった民俗学研究者がいたかどうかを徳富蘇峰記念館の書簡検索で調べていると、本山桂川からの蘇峰宛の書簡が6通、晩年蘇峰の秘書を務めた塩崎彦市宛ての書簡が4通残っていることが分かった。本山桂川は民俗学の研究者で『土の鈴』、『民俗研究』などの雑誌を発行したり、南方熊楠の文章を『南方閑話』として発行したりした。柳田と交流があったものの距離をとっており、独自で研究活動を進めていた。(注2)本山と蘇峰はどのような交流があったのだろうか?

 国会図書館のデジタルアーカイブで本山桂川の本を検索して調べてみると、以下の本山の本に蘇峰が序文を書いていることが分かった。

『海島民俗誌 伊豆諸島篇』 一誠社 1934年
『近世支那興亡一百年』 実業之日本社 1938年
『ロシア侵寇三百年』 実業之日本社 1939年

 蘇峰はいろいろな本の序文を書いていることが知られている。本山が蘇峰に依頼したと思われるが、両者がどのような経緯で知り合い、書簡上でどのようなやり取りがなされていたのかが気になる。徳富蘇峰記念館で実際に書簡を実際に見てみたいところだ。また、私にとっては意外だったが、今回調べていく中で蘇峰が民俗学の研究者たちと交流のあった可能性が分かった。時間があるときに引き続き調べてみたい。

 余談だが、本山の書いた本を調べていると意外なものがあることが分かった。上述した本以外で、以下に個人的に意外だと思ったものを記載しておく。

クロス・ワード教本. 少年少女版(動物園めぐり)  崇文堂 1925年
クロス・ワードの考え方と作り方 祟文堂 1925年
謄写版印刷術の秘訣(実用秘訣叢書:第2編) 祟文堂 1926年
桂太郎と原敬(人物評伝全集 第8巻) 大誠堂 1935年
最新謄写版印刷術 祟文堂 1939年

 私にとって、本山は民俗学の研究者の印象が強かったが、民俗学関連の本以外もいろいろ書いていたようだ。本山は文筆家とも言えるだろうか?

(注1)文章中に引用した『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』高野静子(藤原書店)を参考にした。

(注2)本山桂川に関してウェブで読める文章であれば、『本山桂川―その生涯と書誌―』が詳しい。この論文は『市立市川歴史博物館年報 第15号(平成8年度)』に収録されたものがウェブ上で公開されたものである。また、『在野学の冒険』礫川全次編(批評社)とこの著者のブログを参照した。

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