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4-3.どこからどこまでが自分なの?

『動画で考える』4.自分を撮る

どのような自分を他人に見て欲しいかを考えて撮影してみよう。

「自分を撮影する」とはどういうことだろう。自分を撮影した動画を他人に見せて、自分を知ってもらう、理解してもらうには、何を、どんな風に撮影したら良いのだろう?

ストレートに、自分の「見た目」を撮影するという方法もあるだろう。そうすれば、顔つきや髪型、立ち居振る舞いを動画で記録することが出来るし、それをそのまま他人に見てもらうことも出来るだろう。特に自分の顔つき・表情には誰もがこだわりがあって、今日は体調が悪いので顔色もパッとしないとか、お化粧ののりが良いとか、自分がこう見せたいという撮影の角度があったり、光線の当て方があったりする。スマホのアプリで加工した自分しか見せたくない、という人もいるかも知れない。

動画に撮られる自分のイメージは、誰でも、ここからここまではOKという範囲があって、そこから外れている場合には、それは人には見せたくない、それは自分だと認めたくない、という境界がある。それは動画を見せる相手によっても範囲が異なり、内向きの顔・外向きの顔という様に使い分けたりもする。

「自分を撮影する」とは、無限に存在する自分のバリエーションから、自らが作り上げた自分のイメージに近い自分を切り出してそれを動画で記録する、という作業だ。それは同時に、動画化し共有した自分のイメージ以外は、切り捨てて無かったことにする、という事でもある。その他の自分のバリエーションは、それは自分ではなかったのか?どこからどこまでが自分なのか?

自分をもっと理解してもらうためには、何を撮したら良いのかを考えてみよう。

自分の外形を写しても、それだけでは自分を伝えきれない、自分をわかってもらえない、と考える場合は、それ以上に自分を表現し、説明を加えようとするだろう。言葉で説明する。歌って踊って表現する。走ったり泳いだり飛び跳ねて、自分の身体能力を見せようとする。それは、いま多くのユーチューバーたちがやっていること、そのものだ。

あるいはファッションにこだわりのある人だったら、もっとも気に入っている洋服で着飾った自分を見せたいだろうし、クルマ好きだったら自分の愛車との一体感を普段から感じていて、動画を撮影するときにも、愛車と一緒に動画に納まりたいと思うだろう。

自分の部屋が、自分が誰であるかをもっとも表している、という人も多いかも知れない。長年住み慣れた自分だけの部屋、自分のお気に入りだけに囲まれて、全てが手に届く場所にあるような部屋。それは自分をもっとも的確に表してくれる。自分が思い描きたいイメージや語りたい知識は、部屋にある書籍や雑誌、動画や音楽のデータを参照してもらえれば相手にも伝わるはずだ。こんなふうに見られたい、という理想的な自分のイメージだって、部屋の中に下げられている洋服やバッグや帽子、そしてそれらを揃えるときに参考にしたネットや雑誌の情報を見てもらえばわかるはずだ。

自分が誰かを知るためには、そういう周辺のモノや情報と切り離しがたくて、そういうものを全て切り離されて丸裸にされてしまったら、日々自分を確認する手がかりを失って、とてつもない孤独と心細さを感じるはずだ。それは自分の一部をもぎ取られたというよりは、むしろ自分の本質を失ってしまった、という気さえするだろう。

それは海外の見知らぬ街に、突然ひとりで、着の身着のまま置き去られたことを想像してみればわかる事だ。言葉も通じない、身分証明書もない、スマホもパソコンも持たずに誰も知り合いのいない場所にひとりでいる心細さ。そこで出会った人に、あなたは自分自身をどのように紹介するだろうか?

自分自身がここにいることをより確実にし、そのことを他の人にも知ってもらうために、あなたは「もの」や「情報」を組み立てて、「あなたらしさ」とでもいうものを作り上げてきた。だから、自分を紹介する動画を撮影するという場合も、そうやって集めた「もの」や「情報」から必要なものを選んで、動画向けに編集して提示する、という事になる。

そのような状況では、「もの」や「情報」で何重にも固められた「あなたらしさ」の中心に、「本当のあなた」といったものがあるかどうかなど、誰も興味を持たないだろう。自分をもっとも的確に語るのが、自分を取り巻くそうした「もの」や「情報」なのであれば、むしろそうしたものを事細かに動画に記録して紹介するだけでよいはずだ。

それに、あなた自身も「本当のあなた」などというものを、信用していないのではないか?

あなたがいなくなった後に残された「あなたらしさ」について想像してみよう。

あなたがこの世からいなくなった後にも、あなたがいた部屋、住んでいた家、街はそこに残っている。多くの人に知られる著名人はその死後にも、住んでいた家や部屋がそのまま残されることがある。後世の人びとがそこを訪れたときに、そこにはその本人がまだそこにいるように感じるだろう。故人が使い慣れたコーヒーカップやペンや手帳のようなもの。それは本人の一部であるかのように使い込まれている。

あなたがいなくなったあとにあなたの部屋を訪れた友人は、そこではじめて空虚さを感じるだろう。あなたがいるときには気が付かなかったものが、決定的に欠けてしまったという、取り返しの付かない空虚さを。

だからあなたは、どこにも無いかもしれない「本当のあなた」を求めて、どこまでも追求しそれを動画で記録しなければならない。それは、開けても開けても箱が出てくる入れ子式の箱のようなもので、最後まで何も出てこないかも知れない。それでも箱を開け続けなければならない。

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