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10-1.動画と動画で行う対話

『動画で考える』10.動画を使って対話する

オンライン・ミーティングの動画から読み取れることを分析してみよう。

動画を使ってコミュニケーションを行う、というときに、まず思い浮かべるのはビデオ通話やオンライン・ミーティングのような方法だろう。確かに安定したネットワーク環境や簡易な動画デバイスが整備され、サービスを利用するための使いやすいアプリケーションも増えつつあるいまだからこそ、「動画でお互いの顔を見ながら話が出来るなんて、なんて便利なんだろう」とだれもが(半ば興味本位もあって)仕事やプライベートに取り入れはじめている。

そんなことが当たり前になって、目新しさが薄れてくると、本質的なことが気になり始める。本当に顔を見ながら話をすることが必要だろうか?確かに、メールや電話でやりとりするのと、実際にあって対面で話をするのとでは大きなギャップがあって、これに関しては「たまには会って話をしようよ」とか「ちょっと顔を見に寄ってみたよ」とか「今度一杯やりましょう」とか、そのようなことは誰でも思っている。

しかし、オンラインでも顔を見ながら話をする方が良さそうだ、という発想は、視覚情報も取り込むことで、非言語コミュニケーションもカバーしようとするものだが、必ずしもそれが活かし切れているとは言えず、実際に対面することとは大きなギャップがある。オンライン・ミーティングで使用される動画は、機能的には個人を識別のためのアイコンかアバターのようなもので、実際にリアルタイムの動画でなくても、まったく支障はない。

動画を通して対面することと、実際に会うことの違いについて考えてみよう。

それではコミュニケーションのために、互いの視覚情報が必要ないかと言えば、決してそんなことはない。だからこそ会って話をしよう、という事になる。その場合の視覚情報とはどんなものか。親密さを持って話をするとき、警戒心を持って交渉するとき、気楽な会話、慎重な相談、言葉だけでは伝わらないニュアンスの多くは、表情や視線や口元の歪み、手振り身振りといった「視覚情報」から伝わる事がほとんどの筈だ。

そうしたものが動画通信によって伝わるのなら、ビデオ通話にも意味が見出せる。それは今のような簡易的なものではなく、高解像度の画質と等身大のモニターを介して実現されるものに違いない。その意味で、ビデオ通話もVR(仮想現実)体験も、2020年現在はまだ過渡的な体験でしかない。技術開発の進展によって、本当に必要十分なテレプレゼンスの品質を体験したときにはじめて、そうした試みがどこに向かっていたのかを実感するはずだ。

そんな技術開発が進むのを待つまでもなく、動画によるコミュニケーションにはもっと潜在的な可能性が秘められている。それは言葉による明示的な意思疎通ではなく、動画による暗示的な意思疎通とでも言うべきものだ。

動画は音声に比べて遙かに大量の情報をカバーしている。なおかつ、そこでは明示的に何かを示すこともできるが、暗示的に伝達される情報のほうが圧倒的に大部を占めている。例えば、以下の様なコミュニケーションを思い浮かべてみよう。

不明瞭で曖昧な動画を友人に送って、その返信を動画で返してもらおう。

あなたは近所の公園に出かけた。天気はあまり良くなく、湿度が高く、呼吸するたびに息苦しさを感じる。子どもたちが叫んだり互いの名前を呼び合ったりする声は聞こえるが、姿は見えない。今日は仕事を休んだが、幾つもの案件に係わって、いずれも人間関係につまずいて、抜け出す方向が見えない。そんなときに、目の前の植栽がざわざわと風に揺れて、雲の合間から漏れた太陽光が、地面のほんの一部をキラキラと照らし出した。あなたはその様子を、30秒ほどの動画に記録して、それをごく親しい友人に送ったとしよう。

それを観たあなたの友人は何を感じ何を考えるだろうか?言葉が添えられているわけではないので、明示的なメッセージを受け取ったわけではない。しかし、動画でしか伝わらない何かがあなたから届けられ、それを受け取った。あなたの友人は、その動画を言葉に置き換えることなく(理解しようとすることなく)、受け止めようとする。その場所がどこなのか、その前後に何があったのか、あなたが何を考えながらそれを撮影したのかはわからない。

ただそこに見えるのは、少し湿って濃い色をした地面と、その上に光線が落ちてキラキラと反射し続けている様子だ。光線の反射は、一定のリズムを持って踊っている何かのようにも見える。それに対して地面は触れたらじっとりとした感触がするだろうという事が、画面からも伝わってくる。友人は意識しないかも知れないが、動画の画面は、地面から少し離れた位置から見おろした距離感の画角だし、おそらくスマホで撮影したその画面は少しゆらゆら揺れている。

そんな動画を確認した友人は、ちょうどカフェで休憩していたが、氷がたっぷり入ったアイスコーヒーのカップが目の前にあったので、冷やされて表面に水滴がたくさん付いている様子を動画で撮影して送り返した。

そのような動画を通して、お互いに伝えようとしたもの・受け取ったものは不明瞭で曖昧だ。しかし言葉の背景にはそれを発した誰かがいるのと同じように、撮影された動画の背景にも誰かがいる。動画を見ればそれがわかるし、そこから感じ取ったメッセージに反応して、自分でも動画を撮影して、相手に戻すことができる。そしてそれを繰り返すことは、言葉とは違うレベルでのコミュニケーションだ。言葉による対話で意思疎通が出来るように、動画と動画で行う対話も可能だとしたら、そこではどのようなコミュニケーションが成立するのだろう?

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