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2-3.撮影した動画を遅れて見返すこと

『動画で考える』2.とりあえず動画を撮り始めよう

「記録して残す」という動画の機能に注目しよう。

人生のほとんどの出来事は、時間の流れとともに消えていく運命にある。日常生活で目が覚めている間、見たり聞いたりしたことのほとんどが記憶の彼方に消えていく。日記に書き留めるか、日常のあれこれを写真で撮影する習慣がなければ、過去の出来事は何もかたちに残らない。そもそも、そのような「過去」は本当にあったんだろうか?

何人かで共有されている出来事であれば、お互いの記憶をつなぎ合わせて、その「過去」を確かにあったこととして確認することも出来るかも知れない。しかし、それがあなただけの体験であったとすると、それが現実の出来事なのか、夢に見ただけなのか、単なる勘違いなのか、判断は怪しくなってくる。

どこへ行った、誰と会った、という事実は文字で記録できても、その時の天気は?相手の服装は?どんな話をしたのか?という細部までは記録しきれるものではない。調べればわかるものもあれば、その日の空の色や雲の形・その変化、相手の表情や声の調子、といった記録しようがないものもたくさんある。

動画はそのような日常の細部を記録して「再現」することが出来る。現実は「再現」されることで初めて確実さを手に入れる。幽霊を一度見ただけでは、それは気のせいか目の錯覚だと思うかも知れないが、二度三度と繰り返して目にするのであれば、それは本物なのでは、と思い始める。またそれを目撃したのが、あなた一人ではなく、たくさんの人びとであれば、さらに確度はアップする。

動画はそのように「遅れて」再生されることで意味を持つ。
ネットの時代には動画の再生や共有はリアルタイムのものだが、動画は本質的に、遅れてそれを再生するという役割を負っている。

動画をフィルムで記録していた頃には、フィルムを現像して映写するまでにタイムラグがあった。動画とはそもそも「記録して残すもの」であり、そこにはリアルタイムの再生や共有という考え方はなかった。

デジタルの環境になって、撮影から再生までの時間は限りなくゼロに近づいていった。動画はそこでも「記録して残すもの」でありつつ、リアルタイムに情報を共有する手段としての側面を強めていった。いまや動画は「いかに速く、多くの視聴者に向けて情報を届けられるか」という目的にかなった有効な手法の一つとして日々進化している。

撮影した動画を100年後に視聴した場合の意味や価値を想像してみよう。

一方で、動画の「記録して残すもの」という側面は、技術の進歩からは置き去りにされているか、後回しにされている様に思える。そもそもフィルムで記録された動画は、保存状態に影響されやすく、100年も持たずに劣化したり破損して再生出来なくなってしまうものが多い。デジタルのデータであれば理論的に劣化はあり得ないが、記録メディアやファイル形式が将来にわたってどこまで有効かは実証されていない。

動画の再生や共有の「速さ」は注目されるが「遅さ」が話題に上ることはほとんどない。動画が撮影されてから一定の時間を経てからその動画を見返す事、またはその動画を共有すること。今日、スマホで撮影した動画を100年後に再生したり共有することが出来るかどうかを、いったい誰が気にしているというのだろう?

動画を「いつ」もう一度見るのかによって、動画の意味・価値が変わってくる。同じ街を撮影した動画を、すぐに見た場合、1ヶ月後に見た場合、1年後に見た場合、10年後に見た場合、100年後に見た場合、でその動画を見る意味、その動画が持つ価値が異なってくるのは明らかだ。今日、世界中のあちこちでスマホで撮影され共有サイトで視聴されている動画が、いま現在はコミュニケーションの手段でしかないとしても、100年後には膨大な歴史的記録になっていることは間違いない。ただしその動画を100年後にも視聴可能だとすればだが。

絵画作品が作者の没後に発見され、後世にその価値が評価されて多くの人びとに知られるようになることがある。絵画という媒体は、瞬間的に消費されるものではなく、時間に耐えて数世紀を経ても鑑賞されうるものだ。動画も、時代を経て「もう一度見返されること」を想定して撮影されることが、もっとあっても良い。1年後、10年後に見返す事を想定した動画を撮影すること。あるいは100年後に?1000年後に再生されることを想定した動画とはどんなものになるのだろう?

動画を出来るだけ遅れて届ける方法や仕組みについて考えてみよう。

撮影した動画をすぐに見ない、という振る舞いについても考えてみよう。撮影するがそれを見直すことなく、一定時間おいておくこと、その時間について考えてみよう。土に埋めたタネが芽を出して花が咲くまでの時間を待つように、収穫したブドウを加工して、熟成したワインとなるまで樽に寝かせておくように。そんな動画とはどのようなものか考えてみよう。

それには今ネット上で動画が共有されたり発信されるのとは異なる場所・仕組みが必要だろう。動画を共有するスピードや拡散する量を問わないようなやりかたで、限定的に共有され、より遅く届けられることに意味を見出せるような方法がありえるだろうか?

(写真/せんさ)

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