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3-2.動かない人物を撮る

『動画で考える』3.何もない、をうつす

動画と静止画のさかいめ

撮影機材がデジタル化されたことで、動画の撮影も静止画の撮影も1台のカメラで済むようになり、単なる機材のオペレーションの範囲であれば、それぞれに必要とされる専門性の境界は、限りなくあいまいになりつつある。だから、プロフェッショナルな撮影現場でも、発注者の要望次第で、動画も静止画も一人のカメラマンが同一のカメラで撮影するケースも増えつつある。

ある被写体を動画で撮影するのか静止画で撮影するのか、それが商業的な撮影であれば、判断するのはあくまでその発注者だ。そもそも映画の撮影、テレビスタジオの収録、雑誌や新聞の写真取材というように、写真や動画を使用するメディアが明確に決まっていれば、それだけに特化した機材と専門家がいればよかった。

しかしWebサイトのようなメディアでは、動画も静止画も掲載可能なため、両方対応可能なカメラマンが重宝がられることになったわけだ。両方が必要とされ、両方撮影可能な機材もある。その時にカメラマンは両者をどう判断して撮影するのだろう。

静止画だけでは不十分で動画も必要とされる場合、それはそこに動いているものがある場合。動画とは動いているものを撮影することだ、という暗黙の了解。だからカメラマンが現場の判断で、カメラを静止画モードから動画モードに切り替える時は、そこに何か動きの激しいもの、動きの華々しいもの、素早く動き回るものが出現した時だ。さらに動きの大きいものが出現すれば、カメラはより動きの大きいものを追い続ける。

動画の画面は動きの大きいものに支配される。画面にフィギュア・スケートの選手が映っていれば、背景でじっと座っている観客のひとりに注目するひとはいないだろう。画面に何人も人物が映っていれば、最も身振り手振りの大きな人物に注目は集まるだろう。むしろテレビ放送のカメラマンは、じっとしているものや語らないもの、無表情の顔、空白の時間・沈黙が出現するのを恐れているかのように避け続ける。

椅子に座ったままじっとしている人物を長時間撮影してみよう

そこで、あえてじっとしている人物を撮ってみよう。

椅子に座って、ビデオカメラから視線を少しずらして、じっと動かずにいる人物を出来るだけ長く撮り続けてみよう。
走ったり、笑ったり、話したりしない人物。“まばたき”さえしなければ静止画と区別出来ないような画面。動画でないように見えて、確かに動画であるようなもの。
そのように、画面から動きの大きな要素を除外していくと、そこには強度の弱いものが立ち現れてくる。

何も語らない、動きのない、じっと座ったままの人物の撮影。明らかに退屈な撮影を通してその人物を見続けていると、当然ながらそれが、マネキンやサイボーグのような作り物ではなく、その瞬間にも生命活動を行っている生身の人間であることがわかってくる。

視点が定まらず目が泳いでいる様子、呼吸が乱れて胸のあたりが波打っている様子、やがては髪をいじったり皮膚を掻いたりし始める様子。
そしてもしクローズアップで撮影すれば、肌にじんわりとにじむ汗や肌の色艶・表情の微妙な変化まで観察できるだろう。

数分の間は、そうした細かなことが気になるはずだが、それでも動画が人物を写し続けると、見るものは、やがてそこにないものについて考え始めるだろう。

「この人は何を考えているんだろう」「この人の視点の先には何があるんだろう」「この人がいる場所はどこなんだろう」などなど。さらには、そんな動画をずっと見つめ続けている自分自身について考えはじめるかも知れない。自分はいつまでこうしているんだろう。テレビ放送のように不特定多数の人が視聴する動画でなければ、それは自分だけのために収録された動画かも知れない。

目の前にあるものを見続けることで、自分が何を見ているのかを再確認してみよう

さらに時間が経つにつれて、目の前の誰かを見ていながら、自分がその人物を本当に見ているのかどうか、わからなくなってくる。確かに視線はそちらの方に向けられているので、それを見ていると言っても良いかもしれない。しかし頭の中は、その人物のことを考えていると言うより、徐々に思考が横滑りして、まったく違うことを考えはじめる。自分自身のこと、今日別の場所で会った別の誰かのこと。朝のニュースで見た事件のことなど。過去に起こったこともあるし、これから起こりそうなこともあるかも知れない。そのようなことを次々と考えはじめる。

私たちは、動画を見ているようで「では何を見ているのですか?」と問われれば、何を見ているのか自分でもわからなくなってしまう。自分では何かを見ているような気になっていても、実は目の前にあるものを見ていなかったり、違うことを考えたりしている。思ったより画面に映っているものをしっかりと見てはいない。むしろ、画面を見つめているのでそれを「見ている」と勘違いしてはいるが、見ているようなふりをして別のことを考えている、あるいは目の前にあるものに視線を向けながら、別のものを見ている、と言っても良い状態にある。

しかし、いざ目の前にあるものを意識的にしっかり見ようとしてみれば、そこには思いもよらぬ豊かなものが写っていることに気が付くだろう。

(写真/鶴崎いづみ)


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