見出し画像

5-2.フレームの中の世界

『動画で考える』5.自分と世界の境目

世界を「フレーム」で切り取ることを意識して、動画を撮影してみよう。

あなたの周りには無限に広がる世界がある。空間は果てしなく広がっているし、時間は無限に流れ続けているはずだ。あなたが知ることができること、見ることが出来ること、感じることができることはそのほんの一部で、それ以外のことは、あなたにとっては「ない」も同然だ。

動画を撮影するということは、世界のほんの一部をフレームで切り取るということだ。このフレームで切り取った中の世界については記録しました、その外で起きていることについてはまったくわかりません、という宣言が動画を撮ることの意味だ。

その、あなたが設定したフレームは、あなたが世界をどう見ているのか、世界とどう関わって生活しているのか、ということを示す枠組だ。

日常生活の中の、目に見えない「フレーム」を意識してみよう。

あなたは与えられた時間をどのように過ごすことも出来るし、目の前に広がった空間を、どのように使って活動することもできる。しかし、通常は「ここは自分の部屋」「ここは学校の教室」「ここはトイレ」「ここはベッド」と区分しながらでないと、限りなく生活は無秩序になり、とうていまともな生活が送れなくなるはずだ。また、朝起きて、食事の時間、仕事の時間、遊びの時間、休憩の時間、睡眠の時間、と時間を区切らなければ、また同様に生活の崩壊を招くだろう。

では、そういった日常生活や社会生活の常識を一切忘れて、気ままに行動して良い、と言われたら、あなたはそのように振る舞えるだろうか?

あなたはその時になって、はじめて、普段はまったく意識していなかった見えないフレームに何重にも行動を制限されていて、少しも自分勝手に振る舞えないことに気付くだろう。あなたは自分でフレームを設定してその中で行動していたかのように思い込んでいたかも知れないが、実は最初から与えられたフレームの中のことしかわからなかったのだし、その中で決められた通りにしか行動できなかったのだ。

あなたが動画を撮影するときに設定するフレームも、だからあなたが自由気ままにそれを設定した様に思っていても、それはあらかじめ決められたフレームの中からたまたま選んだ一つのパターンに過ぎない。

例えば、あなたが街に出て動画を撮ろうとしたときに、自分の思い通りにどこまでも入り込んでいって、何でも撮影することが出来るだろうか。デパートや公園や電車の中で、気になる人にカメラを向けて、思うがままに撮影を続けることが出来るだろうか。それは試してみればすぐにわかることだ。

動画を交換することで、自分と他人の「フレーム」の違いを発見しよう。

あなたは自分のフレームを通してしか世の中が見えないし、そのフレームの外のことは何もわからない。わたしはわたしのフレームを持ち、あなたはあなたのフレームを持っている。そのフレームの多くは共通だが、少しずつ大きさや切り取り方が異なっている。お互いに自分のフレームを外れたものは見えないし、理解もできない。

動画のフレームは、私たちが持つそのフレームと相似形だ。それぞれ各人が動画撮影をしそれを見せ合うことで、はじめてお互いが異なるフレームを持っていることに気が付くだろう。

同じ場所で同じ時間に動画を撮影したとしても、あなたに見えているものが私には見えていなかったり、相互に違った時間が流れていることにも気が付くだろう。私のフレームはあなたのフレームの外にあるので、あなたは私の動画を見てはじめて、あなたのフレームの外にも、空間が広がり時間が流れていることに気が付くだろう。

フレームは何重にもあなたを囲っていて、日常生活ではそれを使い分けて物事を確認したり、行動したりしている。同じ家族や組織に属する人物同士だったら、そのフレームはほとんどが重なり合っている。そうでなければお互いを理解できないし、基本的なルールを共有していなければ、共同生活もできないはずだ。だからそのような場所で撮影した動画は同じようなフレームで切り取られることになる。

動画を見ると、あなたがどのようなフレームを意識しているか、どのようなフレームを選んだのかがわかる。それが多くの人びとに共有される場合もあるし、そこで、あなたしか持っていないフレームが選択する場合もあるだろう。

通常は、子どもの運動会やお花見の名所で撮影される動画は、たくさんの人に共有されるフレームで切り取られる。自分だけが持っているフレームで切り取るよりも、多くの人びとと共有出来るフレームで切り取った方が、あとでよろこばれるだろうし、その体験も共有しやすいだろうからだ。「桜の花はきれいだ」というフレームはたくさんの人びとに共有されるが、「桜の古木の枝はささくれていて痛々しい」というフレームに共感する人はぐっと少なくなるだろう。

どうせ動画をひとに見せるのなら、より多くの人びとから共感されるフレームを選びたいだろう。しかしそれは、誰もが持っている共有可能なフレームであり、そこからは、お互いに自分のフレームの外の様子は見えてこない。

動画を撮影するときには、無限にあるフレームの中から、自分しか持っていないフレームを選び取ろう。そしてそれをお互いに見せ合おう。そうすることでしか、自分のフレームの外にある世界は見えてこないのだから。

(イラスト/鶴崎いづみ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?