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3-1.何もない場所にあるもの

『動画で考える』3.何もない、をうつす

「何もない場所」を1時間以上撮影して、同じ時間をかけて視聴してみよう。

「何もない場所」を撮影してみよう。

「何もない場所」を撮影することで、動画がとても多様で豊かな情報に満たされていることを発見しよう。

無造作に置かれたビデオカメラが撮影した動画はとても興味深い。たまたま切り取られた画面には、何も写っていない。きちっと構図を考えてカメラを設置していないので、画面は傾いているし、部屋の壁や片隅が中途半端に映っているだけだ。ほかには何も写っていない。本当に?

退屈な画面をしばらくは眺めていよう。5分経っても、動画の画面に変化はない。10分、20分・・・だいたいそんなに我慢出来るだろうか?気が短い人なら画面の前を離れて、部屋から出て行ってしまうかもしれない。でも、もう少し我慢して・・・30分、40分・・・だんだんと何も写っていないはずの画面に写っている、ささやかな変化が気になり始める。ただ画面が白いだけだと思っていたそこに、壁紙が貼られていることに気が付く。何もない壁だと思っていたけど、細かな模様がエンボス加工でプリントされているんだな、と気が付く。

それに、当たり前のように思っていたけど、壁の上を明るく照らしたり、時々キラキラと輝く線や点が移動したり、画面全体が暗くなったり明るくなったり、案外と変化があることに気が付くだろう。確かに今見ているこの画面は、動くものを撮影して記録する「動画」なんだな、ということがわかってくる。

それにどこからか音も聞こえてくる。子ども達の声だったり、犬の鳴き声だったり、自動車が通り過ぎるエンジン音だったり、そこには写っていない、画面の外の音が、ある時からすごく気になり始める。

1時間も経たないうちに、何もないと思っていた画面に、収まりきれないほどの情報があふれていることに気がつき始める。

それにこの、今までに見たことがないような違和感は何だろう。テレビや映画で見たことがない中途半端な画面。それは、意図されない構図であり画面だ。動画の画面が、意図されたものなのか、意図されないものなのか、その理由がわからなくても、それは違和感として画面に立ち現れて、私たちの意識にずっと絡みついてくる。

その違和感は一見してわかること、画面が傾いているとか、期待したようなものが何も写っていない、といったことを原因としているだろうが、それは言い換えれば、カメラを手でもっていない、三脚にも据えられていない、ということを意味している。撮影するものの手を離れたカメラ、撮影する対象をしっかりと捉えるために本来であれば三脚にしっかり据えられているはずなのが、外されてその辺にポンと置かれたカメラ。そんなカメラが撮影した動画、それは意思のない動画だ。何も意図しない、伝えようとしない動画。私たちはそんな意思のない動画なんてそうそうは必要としていないし、従って見る機会もほとんどない。

いったい意思を伴わない動画を誰が必要としているんだろうか?しかし、意思を伴わない動画はこの世の中に人知れずたくさんあって、一度も見られることなく、場合によっては誰にも知られることなく、保管されている。あるいは消去されてしまっている。

無意識に撮影されてしまった動画を発見しよう。

量販店の店頭に並んでいるビデオカメラに意図せず記録されている動画、スマホのライブラリーにわずか1秒記録された、撮影するつもりのなかった動画。最初は意図があって撮影されていた動画が、停止するのを忘れていつまでも無目的に録画が続けられてしまった様な場合。

そんな無目的な動画にさえも、情報はあふれている。私たちは、あまりにも「意味のある動画」や「意図された動画」に慣れすぎてしまって、そうしたものがない動画を見て、さみしい感じがしたり、物足りなく思ったりしてしまう。でもそれは、味が濃くて刺激が強い加工食品ばかり食べて味覚が麻痺している状態に似ている。

ビデオカメラは本来、そんなささやかな日常空間の断片や、空白、ちょっとした空き時間を記録することも出来るのだ。だからここでは、動画を撮影することを、あえて「何もない場所」を撮影することからスタートする。目に見えているもの・意識しているものを撮影するのではなく、目に見えていないもの・意識していないものを撮影することから始めるのだ。

動画を撮影することを通して、何もない空間と時間を体験しよう。

ビデオカメラを手にして、普段は得られないような時間や空間を体験してみよう。例えば部屋の中や街に出て、ただひたすら立ったまま、ビルとビルの間のちょっとした空間や、そこにあった店が閉店して中身が空っぽになったスペースを撮影してみよう。しかも30分、1時間と普通ならあり得ないような時間をかけて。

「何も写さない」動画は、何もない空間と時間の記録であると共に、何もない空間と時間にあなたが「立ち会う」ための手段でもあるのだ。そこで自分を取り巻く世界を再発見しよう。毎日の忙しさや騒がしさに気をとられて見たり感じたり出来なかった世界に踏み出そう。

ただの空き地にしか見えなかった場所で、しゃがみ込んで、虫眼鏡片手に地面を観察したら、そこにいままで気付かなかった微少な世界が広がっていたように、ビデオカメラを片手に、キラキラと輝かしい世界を見つけよう。私たちはいろいろなことを知っているつもりだったり、目の前のことがしっかり見えているつもりになっているが、実はなにも見ていなかったし、知ってもいなかったことをその時はじめて理解するだろう。

(イラスト/鶴崎いづみ)

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