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8-1.見ているようで見ていなかったもの撮る

『動画で考える』8.見えないものを撮る

理由はないが、他ではなくやはりそこだと思わせる場所を撮影してみよう。

街を歩いていると、誰からも忘れ去られたようなぽっかりとひらけた空間に出くわすことがある。通路からも外れて、建物と建物の間に成り行きで出来てしまった様な場所。何か目的を持って使うには中途半端だが、外部から一切遮断された閉鎖空間でもないので、時々誰かが迷い込んで来て、戸惑ったように辺りを見回して、また引き返していく。こっそりそこで喫煙したり、缶コーヒーを飲んだり、プライベートな電話をするには適当な場所。

それは名付けられない中間的な場所、明確な機能を与えられていない場所だ。普通だったらそんなところで動画を撮影する理由はない。動画の撮影に求められる理由とは、一般的に言ったら、友人とか家族とか場合によっては著名人とか、誰か撮影の対象となる人物がそこにいるから、あるいは、桜が咲いているとか歴史的建造物がそこに建っているとか、つまり撮影すべき人物やものごとがそこにあるから、といったところだろう。

動画を撮影するのに必ず理由が必要なわけではない。動画を撮影する事に理由を求める人びとがいるいうだけのことだ。そのような人びとは習慣的に、動画を撮影する事に理由があるものだと思っている。そんな人びとから見ると、動画を撮影する理由がない場所で動画を撮影している人物の存在は、不安な気持ちを引き起こすし、そこに何か適当な理由を見つけようと気を揉むことになる。だから、人に知られないように誰かを盗撮しているんじゃないかとか、空巣狙いの下見をしているんじゃないかとか、あらぬ事まで考えはじめる。

理由はないが他ではなく、やはりそこで撮影したいと思わせる場所がある。そういう場所を探して撮影しよう。

それはどんな場所だろう?おそらく直感的なものでしかなく、適度な広さとか、気温・湿度が心地よく思える場所、壁や地面の質感や色・光線の当たり具合が気持ちを落ち着かせるなど、そんな些末なことの寄せ集めが、自分にとっての気になる場所を作り上げている。だから、通りがかりの人に「何を撮影しているの」と聞かれても、どうにも答えようがない。

そこにある「見えないもの」を意識して動画を撮影してみよう。

ビデオカメラで動画を撮影するという行為は「何かにむかってカメラを構えている」という姿を連想してしまうので、カメラの先には何かがある、と自動的に思われてもしょうがないのかも知れない。確かにそこには「場所」を構成するさまざまな要素はあるが、それは撮影しようとしている「何か」ではない。端から見れば、何もない空間にむかってビデオカメラを構えているように見える。

そんなときに「何を撮っているんですか?」と聞かれたら、「見えないものを撮っているんです」と答えよう。実際に、そうとしか答えようがないのだから。

「見えないものを撮る」という撮影のスタイルは、何か理由があって撮影をする、という一般的なスタイルから逸脱するためには、有効な手段だ。私たちは動画の撮影をするときには、当たり前のようにその理由に向けてビデオカメラを構えようとする。ある人物を撮影することが目的であれば、当然のようにその人物にフォーカスを合わせて、画面の中央に配置しようとするだろう。

一方で「見えないものを撮る」場合には、何もない空間をぼんやりと見ているようなスタイルになる。目の前にある建物でもなく、地面でもなく、人物でもなく、その中間あたりにある何かを見ること。そこには何もないので、視線が定まらずピントがぼけているような動画が撮れるかも知れない。

建物に興味があるとか、風景がきれいだとか、それが撮影の目的ではないので、動画を見ても何に注目して良いのかわからない。構図も中途半端で、何が写っているのかも判然としない。話し声のような意味を持った音声も聞こえてこないので、何かノイズのような捉えどころのない音響が全体を覆っている。

名付けられたものたち、それ自体ではなく、その関係に焦点を当てて撮影してみよう。

街の中にぽっかりと出現する何もない空間は、「見えないものを撮る」ための場所だったのかも知れない。そこには名前も機能もないので、「ああここは○○だな」とか「ここで○○をしよう」と自動的に反応することを許さない。いったんは判断保留、思考停止の状態になって、目の前にある空間をそのまま受け止めるしかない。

そのような場所が、何か特別な場所かというとそんなことはなく、超自然的な力が働いているなどということもない。実際には街の中の他の空間と異なる点は何もない。

通常、動画撮影するような場所は、あらかじめ名前や機能を与えられているので、「そのようなもの」として認識してしまって、「場所」そのものをしっかり見ているわけではない。「見ているようで見ていない」状態だ。だから、実は「見えないものを撮る」というのは、見ているようで見ていなかったものを動画撮影を通してしっかり見る、ということだったのだ。

このような試みを繰り返すうちに、生活空間のあらゆる場所で「見えないものを撮る」ことが可能であることに気が付くだろう。意味や機能のあるものを避けて、その「あいだ」の空間を撮ること、普段は視線が素通りしてしまうような場所でビデオカメラを止めて撮影する、目の前にいる人物に合わせたフォーカスを、少し手前にずらしてみる。

そこに「見ているようで見ていなかったもの」を発見して、その形態や性質、空間との関係や動きを、じっくりと観察してみよう。

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