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13-1.時間を撮る

『動画で考える』13.動画の中の時間

あなたのイメージする3分間を動画で記録してみよう。

動画は時間を記録し、保存し、そして再生する。

目の前で起こっている出来事を一定時間撮影する。3分間撮影すれば3分の時間を記録した事になる。特に特徴のない場所やものを一定時間撮影すると、確かに再生する際にも3分間かかるのだから、そこに3分の時間がある、と言っても良いだろうが、実際には時間の経過を確認したり感じたりするものがそこに写っているわけではない。

画面に時間を表示するような機能があれば、数字のカウンターが時間の経過を示してくれるので、それ以上何も写っていなくても、時間の経過は把握出来るし、正確に3分の時間の経過を知ることも出来るだろう。しかし、そういった手がかりのない、例えば特に変化のない室内を撮影しただけの動画をじっと見続ける場合の時間感覚は、暗闇を手探りで歩いているように、進んでいるのか止まっているのかさえ覚束なくなってくる。

動画の録画や再生という機能の中で、それは3分と定義されているかもしれないが、感覚的・体験的にそれを3分と感じている訳ではない。だから、その動画を見ても、人によっては長く感じたり短く感じたりするだろうし、動画を見ることだけで、正確に3分だったと言い当てることは出来ないはずだ。

誰かがビデオカメラに向かって語りかけている動画の場合はどうだろう。話の内容が「展開」したりストーリーが「流れ」たりする、と形容されるように、話の進行と共に時間が流れていることが認識出来る。しかしそれは数字のカウンターが示すような誰もが同じ時間を確認出来るようなものではなく、見る人それぞれが違った時間を体験するような極めて主観的なものだ。ある人にとって話が興味深く面白いものだったら、時間は「あっという間」に過ぎるし、興味がまったくなく退屈な話であれば、時間はとてつもなく長く感じられるだろう。

石ころのように目の前に置かれた時間をイメージしてみよう。

動画に記録された時間を、石ころの様なものとして考えてみよう。3分の時間を撮影して、保存して、持ち帰る。石ころは、道端に落ちていることもあるし、部屋に持ち帰って机の上に置かれていることもある。もともとあった場所から別の場所に移されて、ある空間から切り取られて別の空間に置かれる。3分の動画も同じように、ある時間の流れから切り取られて、別の時間の流れの中に置かれる。同じ部屋で撮られた動画でも、一週間前の時間がいまここの時間の流れに置かれている。

またあるときは、動画は小説や絵画のように強いイリュージョンを伴っているので、それによって動画を観る者の内部にさまざまな時間感覚が発生する。それは瞬間の体験かも知れないし、永遠かも知れない。

庭の、春夏秋冬の様子を撮影した動画が、編集されて一つの流れになっていれば、例え3分の長さの動画だとしても、それは「一年間の」時間の経過を記録していると理解される。また映画やドラマの決まり事に従って表現するなら、なんともない画面のつなぎ目で「二日後」と示されればそれは二日間の時間が経過したのだし、「二年後」と言われれば、それは二年の歳月が経過したのだと誰もが納得する。それが動画のイリュージョンだ。

編集も時間のイリュージョンを生み出す大きな要素だ。一時間の出来事を撮影して記録する。それをそのまま保存することも出来るが、誰かにそれを見せる場合は編集して時間を短くする。一時間の出来事を記録した動画が、一時間そのままの長さの場合も、短縮して三分になっていることもあるのだ。たった三分の視聴体験でも、一時間の出来事を体験することは出来る。

石ころのような動画は、イリュージョンからは切り離されているので、観るものに時間を感じさせるような編集や加工を必要としない。多くの場合は撮影されたそのままの動画が記録される。それはただの時間であり、誰かに観られることも必要としていない。ただ一定時間撮影されて、記録媒体に保存されたり、ネットのどこかにそのデータがしまわれている、そこに時間が「石ころのように」置かれているだけ。

一万年後に再生される動画にどんな意味があるのか?

そんなものに意味があるのか?それは、一つの「石ころ」のように意味がある/意味がない、としか言いようがない。それは、特段捨てられたり消去されない限り、そこに置かれ続ける。一年でも二年でも、十年でも百年でも・・・そしてあるとき、その時間が再生されることがあるかも知れない。百年後の同じ場所で、百年前の時間が再生される。それも誰かに観られることを求めてはいない。ただ同じ場所で再生されるだけ。あるいは、一千年後・一万年後に再生されることもあるだろうか?それは誰もいなくなった地球上でのことかも知れないし、もしそれをたまたま誰かが観たとしたら、どんな感慨を抱くだろうか?何かの重要な記録でもなく、一万年前の人類が写っているわけでもないその動画を見て。

私たちは、山の中かどこかでたまたま遭遇した大きな岩を観て、そこに刻まれた時間の経過を目の当たりにして、何かしらの感慨を抱く。専門的な知識がなくとも、奇妙な形にえぐられたり、雨風に磨き上げられた大きな岩石を観れば、幾つもの時代を経てそこに置かれていたであろう事を直感できる。

それもまた、時間を記録する媒体であることは間違いない。

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