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8-4.怖い動画

『動画で考える』8.見えないものを撮る

ひとの顔もジャガイモも岩の塊も、同じように動画で撮影してみよう。

怖いこと、それは端的にいって「リアル」を見つめることだ。

ありのままの自分を見つめること、ありのままの他人を見つめること、ありのままの真実を見つめることは、勇気のいることであり、たいがいはそれをごまかそうという気持ちが働くものだ。

動画のもっとも独自の、優れている機能は「そのまま写し取る」という点にある。例えば、ひとの顔もジャガイモも岩の塊も、それぞれの特徴を持った塊としてそのまま映し出す。ひとの顔だからといって、そこに何の配慮も思い入れも無く、ただ冷淡に、ジャガイモや岩の塊と同等に「もの」として記録される。ああ、丸い形だね、とか、しわやシミが多いね、とか、手に取ったら重そうだね、と動画の描写は身も蓋もない。昔から良く例えられるような、「花」のようだとか「太陽」のようだとか、とは似ても似つかない「ただの物体」として写し撮られてしまう。

ひとの顔がそのようなものだと気付かされるのは「怖い」。日常が不安定な危ういバランスの上に成り立っていること、ちょっとしたきっかけでそのバランスが崩れて、現実が露呈するかも知れない、その危うさに気付いてしまうことが「怖い」。

ファッションやコマーシャルのための写真は、フォトグラファーが「美しさ」を表現するために現実のモデルを素材として作り上げたイメージに過ぎない。それは、モデルの実体とは別物で、ドライフラワーや剥製のように瞬間を固定して保存したものだ。しかしファッション・フォトグラファーではないあなたが、目の前にあるモデルの実体を動画で撮影しようとする時、その行為は時間の経過とともに「美しさ」という固定されたイメージをゆがませてしまう。

社会的な顔が、物質的な顔に変化する過程を撮影してみよう。

ファッション・モデルが美しい顔とプロポーションで立っている。その瞬間は永遠に続くかのように美しい。しかしその瞬間を維持できるのはせいぜい10分か20分というところだろう。しばらくするとモデルの頭の中には様々な思いがふつふつと浮かび上がっては消えていく。いつまでこうしているのだろう、この姿勢が苦痛になってきたな、そういえばこの仕事の支払いはいつになるのだろう、昼はどこに食べに行こうか・・・

モデルに徹していた瞬間は完璧な表情を作っていたが、様々な想いと共に表情も水面にさざ波が押し寄せるように微妙に変化する。やがて耐えられないほど時間が立つと表情は大きくゆがみ、モデル本人も思ってみなかったようなことを叫び、その場にしゃがみ込むかその場を立ち去ってしまうだろう。

それでもあなたは動画の撮影を続ける。モデルという仕事の顔から、素顔に戻って感情を露わにするまでのその変化を観察する。

今や私たちが目にするポートレイトのほとんどは、「こうあるべき」「こうありたい」というパブリックイメージをビジュアル化したものに過ぎず、それがリアルな実体であるように誰もが錯覚している。スマホによるポートレイト撮影とは、私たちの顔のパターンをインプットして、それに対してあらかじめ用意された最適なビジュアル・イメージをセレクトして、アウトプットしているに過ぎない。誰も「じゃがいも」のような自分の顔など見たくないし、ネット上で使用する自分のプロフィールは、アイコンやアバターのように、いくつかあるパターンから選べて、他のキャラクターと識別出来れば十分なのだ。

素の表情、撮影されていることを意識していない表情を引き出して撮影してみよう。

あなたがこれから動画を撮影しようという時に問題となるのは、撮影のための機材があらかじめ画一的にチューニングされていたり、限られたフィルターを通してしかものを見る事ができなかったり、アプリケーションでできることがテンプレート化されていたり、という点ではない。あなた自身が「こうあるべき」「こうありたい」というイメージに囚われてしまって、本当に目の前にあるものが見えなくなってしまっている事の方が遥かに大きい問題だ。そこからどうやって抜け出したら良いのか。

例えば、あらかじめ想定できないような不意打ちを喰らった時の顔。撮影する方もされる方も準備する間も心構えもなく撮影された動画、その時の表情。あるいは光量も十分ではない暗闇にいる人物を動画撮影する場合。ノイズまじりの暗闇にぼんやり浮かび上がる顔らしきもの。あるいは、何者かに追われて逃げ回っている人物を撮影した手持ちカメラの動画、画面もぶれているし、表情も苦しそうに歪んでいる。

このような特別な状況下では、理想的なパブリックイメージが起動する間もなく、目の前に実体らしきものが姿を表す。動画もすかさずそれを捕獲するしかない。

このようなシチュエーションは、図らずも「恐怖映画」の定番のプロットで使われるものだ。「恐怖映画」とは、普段はその姿を現さないものたちが、特別な状況下で初めてその存在を露わにして、人々がそれに対峙するという種類の映画だ。人々はそこで、何気なく過ごしていた日常が、ある日突然変容して真実の姿を現すことに恐怖する。

それほど私たちは目の前にある真実を見てはいないし、真実に対面することは恐怖でしかない。それでも私たちは動画撮影を通してその真実と対峙しなくてはならない。

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