
限りある「今」を再構築することで、「金」を産む行動デザイン
今って、何秒?
「いつやるか?今でしょ!」
これは、東進ハイスクール講師、というかもはや芸能人といってもいいのか、林修さんの言葉である。
知らない人はいないのではないだろうか?
というくらいの高い認知度を誇る。
2013年にトヨタ自動車のテレビCMに使用されるなどして話題となり、同年のユーキャン新語・流行語大賞で年間大賞を受賞しているキラーフレーズである。
しかし、そんな言葉も今や死語になりつつある。
職場の後輩に使おうものなら、白々しい顔をされるのがオチである。
それでも、わたしはこの言葉が好きで、つい使ってしまう。
その度に、
「古っ…」
「それ、いつの時代の?」
って寒がられているが、
「でも、そんなの関係ねぇ!」
なのである。
これも、今や感があるが、これも何気にキャッチーで依存性が高くて好きなのである。
ある時、ふとしたことでこの「今でしょ!」という言葉が出た際に、そもそも今とは何だろうかという素朴な疑問が湧き上がってきたというのが、今回の趣旨の話。
「今」とはどれくらい、具体的には何秒くらいを指すのであろうか?
人間とは?
書籍『エフォートレス思考』(グレッグ・マキューン/かんき出版)によると、
〝最新の脳科学および心理学によると、「今」として体感される時間はおよそ2.5秒。私たちはつねに2.5秒を生きているともいえる。大きな成果も、突き詰めればこの小さな現在の繰り返しだ。〟
とある。
2.5秒。
最近の知見では、今とは2.5秒だという。
マインドフルネスとは、「今・ここ」に意識を向ける事とされているが、それはつまりは2.5秒に意識を向けるということなのである。
書籍『モモ』(ミヒャエル・エンデ/岩波書店)によると、
〝時間とは、生きることそのものなのです。
そして人のいのちは心を住みかとしているのです。〟
とあるように、私たちは時間とは切っては切れ離せない間柄にある。
〝人間=時間〟
と言ってしまってもいいかもしれない。
そう考えると、わたしたちは、2.5秒の総体といえるのではないだろうか?
限りある時間
そしてそんな2.5秒の総体も無限には続かない。
いすれ終わりがくる。
自分の時間とは有限であるのは周知のこと。
哲学者のハイデガー風に見ると、
〝自分は限られた時間である〟。
2.5秒の限られた時間の総体こそが、わたしたちの存在の本質ということになる。
誰かが言っていた。
〝あなたの人生とはすなわち、あなたが注意を向けたあらゆる物事の総体である〟
注意を向けるとは、今を捧げること。
今とは2.5秒。
そして2.5秒とは自分の人生そのものという風に三段論法で考えると、何に2.5秒を捧げるかはもっと真剣になって考えなければなとしみじみと思うわけである。
あまりにも遠い過去や未来について考えすぎるよりも、今を生きろというのは、使い古されている言葉だけれども、上記を踏まえると概ね正しいと実感する。
相当に意識しないと、忙しい日常に埋没しがちなことであり、目につくところにでも貼っておきたいものである。
常に手のひらにでも書いてあると、まず間違いなく1日を通して何百回と見ることになるのだが…
〝ヒトは今(=2.5秒)の総体である〟
冷蔵庫にでも貼っておこうか…
妻からは、
「そんな事考えている暇があるのなら、子供のオムツ交換でもして、今を感じろ」
と言われかねないので、育児や家事をすることで、2.5秒を味わうこととする。
つい意識は過去や未来にと飛んでいきがちである。
目の前で子供と遊んでいたりしても、つい先々の将来のことに考えが及んでしまったりする。
そのせいで、子供との貴重な「今」がないがしろになる。
ついSNSを見ているうちに、あっという間に1時間が、またNetflixで見始めた映画がそれほど面白くないなと感じても、見始めた手前で最後までダラダラと見てしまい、2時間を浪費する。
それは2.5秒の連続する自分の命が無情にも消えていってしまったということになる。
もしではなく、現実
〝時間=自分〟
このことを常に念頭に置いて過ごしていきたいものである。
2.5秒後には自分の人生が唐突に終わりを迎えるかもしれないと考えると、
もはや古典といってもいいキラーフレーズである、
〝もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするだろうか?〟
iPhone生みの親スティーブ・ジョブズの言葉とされているが、これがまさに「もし」という仮定ではなく、リアルに迫ってくるのである。