凡人。

 これまでの人生20年間、数々の"非凡"な人間に出会ってきた。その度に自分の凡庸さを痛感する。若い自分はまだ努力次第では何者かになれるだろうか。この答えは否。私は何者にもなれない、直感的にそう確信している。天才が先天的なものとは微塵も思わないが、後天的だとして意識的になれるという代物でもないと思うのだ。

 noteを初めて使ってみるが、これは誰に向けて書いた訳でもなく、自分の考えをアウトプットすることのみを目的にしているため、使う言葉の解釈は多分に恣意的であり、あえて説明することはしない。ただ、自分は何をもってある種の人間に"非凡"性を認めるのであろうか、自分のいう非凡とはそもそもなんなのか、自分でも考えてみたい。

 日本国語大辞典によると非凡とは ”平凡でないこと。通常でないこと。特にすぐれていること。また、そのさま。” であるという。
 なるほど、東大に通う人や海外にいったことがないのに英語がペラッペラな人などは辞書的な意味では非凡であるだろう。実際にこのような人は周りにたくさんいて尊敬の念に堪えないのだが、あまり非凡だと感心した記憶はない。優れた学力といったことは自分がここでテーマにしている非凡とは少しズレているように感じる。同様に、大金持ちであったり社会的地位があるといったようなこともここで自分のいう非凡には当てはまらないように感じる。ポストやスキルといったことは関係ないらしい。
 これらの人になろうとするには、少なからぬ努力や才能が要求されるが、意識的に達成しうることであるからだろう。

 こう考えてみると、おそらく自分のいう非凡性には感性や物の考え方といった内的なものが大きく関係しているように思われる。どのような音楽や本を好むのか、どのような視点で社会を見るのか、どのような文化に興味を示すのか、どのような言葉遣いをするのか、どのような思考の過程を経てその行動を取るのか。
 こういった精神的傾向の過程(もしくは理由)に自分の言う非凡性は大きく依存しているように思われる。

 要するに”センス”のいいひとのことらしい。凡人と違うセンスを持っていてそれが格別に優れている人間。これが自分のいう非凡な人間。       

 何が非凡な人間を非凡たらしめるのか、これはその人が持つ格別に優れたセンスであり、センスという意識的に不可変である要素を持ち合わせていなかった自分が、嘆きながらも自分のセンス、考え方の凡庸さ、その原因、過程について凡人なりの解釈をするnoteをこれから更新していこうと思う。


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