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軍政時代以降最大のデモ  ポップ・カルチャー上でも知っておいたほうがいいチリの悲しき歴史

どうも。

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チリでのデモがすごいことになってますね。これ、先週の金曜に首都サンチアゴで行われたデモですけど、これで120万人くらい参加したんですよね。この市の人口の5分の1ですって!いかに事態が国民的にかなり深刻なことかがわかるでしょう。

民衆の怒りが止まらずに、いたるところで護衛の軍隊と肉体的な暴力の応酬もあれば、銀行のATMに火をつけたり、スーパーが略奪に遭ったりなどの行為も見られたりします。まあ、暴力は決して肯定されることではないのですが、軍隊側の痛めつけ方もかなり問題視されていて、政府側の方が国連から目をつけられたりもしています。

すごいなあ、と個人的に思ったのはまずこれですね。

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これ、本当に世界の名画を見ているかのようですよね。なんか、フランスの7月革命の絵を描いたドラクロワの絵画を思い出させます。まず、この人のタワーができてること自体が不思議だし、この瞬間を最高の角度と、背景の炎と煙のマッチングの妙といい。これは、このデモの精神性を最高の形で表してますよね。

そして、僕としては個人的にもう一つ。これです!

なんと、民衆が一斉にフォークギター抱えて、この国のレジェンドとなっているフォークシンガー、ビクトル・ハラの「自由に生きる権利」と言う曲を歌い始めてるんですよね。

これを見たときに

ああ、やっぱり、「チリの悲しい歴史」と言うのは、一人でも多くの人に知られておいたほうがいい

と思って、今回、ちょっと書いてみようかと思いました。この

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ビクトル・ハラが生きた歴史ですね。その辺りの時代について語りましょう。

まず、時は1971年に遡ります。

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1971年に、まずサルヴァドール・アジェンデと言う大統領が社会主義的な国づくりを始めるんですね。それは他の共産国のごとく革命を起こしたわけではなく、選挙で合法的に平和に生まれた政権だったわけです。それはチリのような、貧富格差が元から強かった国には望まれていたものでした。

ビクトル・ハラはちょうどこの時代に、同国の新しい音楽シーンである「ヌエヴァ・カンシオン(その名も「新しい音楽」)」の担い手としてすごく期待されていました。分かりやすく言うならば、この当時に欧米で盛んになっていたプロテスト・フォーク、フォーク・ロックを、チリに古くから伝わるフォルクローレ(フォークロア)と合わせたものです。この当時、多くの先鋭的な意識の若者たちが独自のロック文化を芽生えさせていったようなことを、チリでハラたちがやっていた、というわけです。

ハラはあくまで、貧しい民衆側の目線に立った歌を歌ってきていました。ですので、「社会の不公正を減らす、なくす」の方向にあったアジェンデ政権は理想的なものでもあったわけです。

しかし、時は東西冷戦の時代です。南米だと1959年のキューバ革命以来、「中南米で社会主義とは危険だ」との考えがアメリカを中心に強い時代でした。。「第2のキューバを止めないといけない」というのが、南米の右派の考え方で、それはアメリカによってバックアップも受けていました。

そして

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1973年9月11日に軍隊がクーデターを起こします。それを扇動したのは

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陸軍総司令官だったアウグスト・ピノチェです。日本では「ピノチェト」表記ですけど、最後のTは発音しないのでピノチェです。彼がアジェンデ政権を武力で打倒して、アジェンデ政権の要人を全員処刑する形で大統領になります。

前政権を惨殺して政権についている時点で、やってること、批判してたはずのキューバとすでに変わらないのですが’、その矛盾はすぐさま大きくなることになります。

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とにかく少しでも危険と睨まれたら、辺り構わず軍が殺戮する、なんてことが平気で行われました。

一般的だったのは、「左翼活動をしている」との噂が立った人たちは

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こうやってサッカー・スタジアムに連れていかれ、最悪の場合は処刑、よくて刑務所収監でした。刑務所では拷問も待っていました。

そしてビクトル・ハラも、クーデター勃発6日目にスタジアムで処刑されています。

ハラのことはこのブログでは以前でも取り上げていて

去年特集した「非英語圏のロック」の第3回でも触れています。こちらもよろしければ是非。

それだけじゃないですね。

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南米で最初だか、2人目だかのノーベル文学賞受賞者、詩人のパブロ・ネルーダも、直接的な処刑ではないですが、クーデター勃発13日で亡くなっています。彼の場合は癌を患っていたのですが、クーデター勃発後に、医師からの治療を一切止められた状態となって、死を早めています。

このクーデターでの死者、行方不明者は4000人近くだと公式発表されていますが、「そんなわけはない」との説が有力で、1万はくだっていないと言われています。収監、拷問を加えると10万人には被害者が生まれ、亡命は100万人に及んでいるとも言われています。

このクーデターの時の模様は

1982年、オスカーの作品賞にもノミネートされた「ミッシング」という映画でも描かれています。この映画は、アメリカからの自由を求めチリで生活していた息子が行方不明になったのを探しに来た、ジャック・レモン扮する父と、シシー・スペイセック扮する義理の娘を描いた、実話ベースの話なんですが、上の映像でシシーが人目を盗んで外出して歩くシーンの傍らで、軍がストリートで殺戮を当たり前のように行い続けている光景は異様です。

そして、この映画でも明らかにされているんですが、行方不明の息子はチリ当局によって秘密にされ続け、時間をかけて処刑されたことを知ることになります。

こういう映画がピノチェの在任中に公開されているにもかかわらず、ピノチェ政権に影響はなく、それどころか

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ピノチェ政権が行ったリバリタリアニズムに基づいた新自由主義経済は、80年代にイギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領にも受け継がれてしまいます。特にサッチャーへの影響は強かったと言われています。

この経済システムだと、個人の財産に関しての政府の介入などが一切認められないから、富める人は富んで貧しくなる人はどんどん貧しくなるシステムなんですよね。それに伴って、古い価値観が尊ばれて保守的な感性が強まることにもなる。チリにおける貧富の差は、この時に強まっています。

こうした世への批判は

スティングが1987年に「They Dance Alone」と言う曲の中で批判しています。

そうしたチリでのピノチェの独裁ですが

1989年になって、ようやく国民投票で国民がピノチェの独裁継続への反対票が上回ったことで、1990年にようやく終焉を迎えます。この国民投票でのピノチェ反対運動も2013年に「No」という名前で、ガエル・ガルシア・ベルナルを主演に描かれています。

そこからチリは民主化に向かい、左派と中道右派の政権が入れ替わりで政権を取り、ピノチェはタブー視されたまま2006年に死去。そのあとも、やや左派寄りで国は進んでいたんですが、ブラジルを襲った汚職スキャンダルや、ベネズエラの左翼独裁で左のイメージが悪くなって、チリでも2017年の選挙で、元銀行家の右派の人が2度目の大統領に返り咲いたんですが、「貧富の格差が広がった」ということでのデモになりました。

これですね、間接的に

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当ブログおなじみのブラジルのバカ大統領ボウソナロが絡んでるんですよね。こいつ、よりによってピノチェ礼賛者で、今回のデモも「軍事政権が終わったから民衆がつけ上がった」ってバカなこと、平気で言ってるんですよね。だからチリではかなり民衆の敵扱いされてます。

実際、彼が大統領になって以来、アルゼンチンで彼が支持した企業家出身の大統領は選挙で負け、エクアドルでは新自由主義経済に踏み切った政権がデモにあい、そしてチリでこうなっています。「極右政権になると、こんなにもバカになるのか」の見本が恐れられているところは否めません。

そして、今回のデモでもお

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こうやって、ジョーカー・メイクの人が多く現れています。あの映画の登場は、やはり絶妙だったようです。

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