「サッカーの王様」と「パンクのゴッドマザー」が同時に世を去った・・・。
どうも。
12月29日は悲しい日になってしまいましたね。
ペレとヴィヴィアン・ウェストウッドが同時に亡くなってしまいました。「サッカーの王様」と「パンクのゴッドマザー」が世を去ってしまったわけです。
サッカーというよりはブラジル、そしてパンクロック。どちらも僕にとって非常に大事な存在なだけに、喪失感の大きなものです。
ペレに関しては、物心ついたときにはもうすでにこういうイメージでした。初めて知ったのは1979年かな。当時小学4年でしたけど、学校のサッカー・クラブに入ってたんですね。サッカーが好きだったわけではなく、親に「運動しなさい」と言われてなんとなくだったんですけど。そのときに練習以外のミーティングのときに「ワールドサッカーの基本」みたいなミニ・ブックを与えられて、そこで真っ先に紹介されていたのがペレでした。「もう引退したけど、この人はすごかったんだよ」みたいな感じで。あとはベッキンバウアーとクライフを覚えましたね。
サッカークラブも6年生に上がる前にやめちゃったし、そんなにサッカーにのめり込むこともなかったんですけど、40歳のときにブラジルで生活するという宿命になりまして。そこでカルチャーとして、サッカー、ペレと向き合うことになりました。
生活してて、翻訳の仕事とかやるでしょ。そうしたら、ペレはもう、日常茶飯事で接するものだったんですよ。彼のサッカー選手時代の偉業は現代史に組み込まれるくらいの、いわば「一般常識」のレベルだし、僕がブラジルで過ごした13年も、体調不良のニュースが多くはありましたけど、「サッカーのご意見番」としてセレソンを気遣う発言がメディアを賑わしてましたね。共和制の国だから象徴的な存在が欲しいという心情もあるんでしょうかね。まさに「王様」みたいな扱われ方してたと思います。
ペレというのは、日本にたとえると長嶋茂雄ですね。1958年、まさにッミスター長嶋が読売ジャイアンツでデビューを飾った年に、セレソンはわーrっつどカップで、この当時17歳だったペレを擁し、初優勝を果たします。
ペレ、17歳でセレソンのレギュラー、守備位置としては当時の配置見るとトップ下ですかね。ヴァヴァというセンター・フォワードのやや右下の位置守ってて、右ウイングにガリンシャ、左ウイングにザガロ、ミッドフィールダーにジジ・・・みたいな、サッカー史知るとかなりレジェンダリーなメンツの中、そんな主要な位置守ってたわけですから、天才ですよね。
この大会でペレは2位の6得点。そのうち3点が準決勝のフランス戦、2点が決勝のスウェーデン戦と、「ここで決めて欲しい」クライマックスの試合で荒稼ぎという、その年齢の若者とは思えない神がかった活躍をしたわけです。
このタイミングはですね
かのジョアン・ジルベルトが「シェガ・ジ・サウダージ」でボサノバ時代の幕を開けたり
1960年に新首都ブラジリアが、超近代建築家オスカー・ニーマイヤーのデザインによる斬新な都市設計のもとオープンしたりと、ブラジルがめざましい急台頭を見せている時期でもあり、そうした記憶の1ページとして国民の記憶に長く刻まれてもいます。戦後の高度経済成長を遠い目で語る日本人のようなもの、と思っていただけるとわかりやすいと思います。
続く62年の大会では早々に故障も、ペレ抜きで優勝。1966年はスウィンギング・ロンドン真っ只中の大イギリス・イヤーがサッカーでも訪れグループリーグ敗退だったんですが、
ブラジルでもっとも語られるのは、円熟の1970年、3度目の優勝を果たした時ですね。
このときにペレは最優秀選手に選ばれてます。
特にグループリーグのイングランド戦での名キーパー、ゴードン・バンクスにヘディング・シュート止められたのとか
ワールド・カップ史上に残る名シュートと言われる決勝のイタリア戦でのカルロス・アルベルトへのアシストなどがすごく語られます。
ペレは所属のサントスでも黄金期を築いてました。1960年代の前半は、1962,63年にインターコンチネンタル杯で2年連続世界一になっています。
ペレは現在みたいにヨーロッパにいかず、サントス所属のまま1974年に現役を一応引退。そのすぐあとにアメリカにわたって北米サッカー・リーグに参加。ニューヨーク・コスモスの主力メンバーとして1977年までプレー。
サッカーがてんで盛り上がらなかったアメリカですが、このペレのコスモス在籍時にほんの短い同国でのサッカー熱が沸き起こり、ここでもサッカーの国際化に貢献しました。
・・・と語っていくと、やっぱりレジェンドですよね。
一方、ヴィヴィアンはといいますと
1970年代前半、マルコム・マクラーレンと共にロンドンでショップ「Sex」をオープンします。ただ、マルコムの関心は音楽にも向かっていたことで
1970年代半ば手前でニューヨークにわたってニューヨーク・ドールズのマネージメントを手がけ
1976年には「Sex」の常連客の少年達でセックス・ピストルズを結成。たちまちセンセーションを巻き起こします。ヴィヴィアンは彼らのファッション面を担当しますが、1976〜77年のロンドンには彼女のファッションが街を覆い尽くし
このジョニー・ロットンの問題発言のテレビのトークショー。この際にバンドに関係ないのにピストルズの周りにいたとりまきのファッション。これがもう典型的な当時のヴィヴィアンのスタイルですね。でも、こんな親衛隊がいきなり取り巻きでテレビ出てきたら、怖いですよね(笑)。しかも、その直前はまだヒッピーでベルボトム・ジーンズの時代だったわけですから。
パンクのブームが去った後もヴィヴィアンはファッション界の一戦で大活躍。
80年代前半のニューロマンティックの時代は「バッファロー」といってこんな感じでしたね。これ、覚えてます。
そして90年代には、19世紀の王朝ドレスをパンクにアレンジしたスタイルで話題を呼びました。
ヴィヴィアンは政治的にも常に過激な人でして
1989年には本人になりきってマーガレット・サッチャーを挑発。
その後も核軍縮や気候変動問題に歯に絹を着せない発言を行い、積極的にプロテスト活動も行い、奇抜なファッションと共に世間に檄を飛ばしまくっていました。こういう人が世からいなくなるのは、本当に寂しい限りです。
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