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映画「Elvis」感想〜「プレスリー」ではなく「エルヴィス」の映画なのは嬉しかったけど・・

どうも。

では、今日は映画評いきましょう。これです!

はい。「Elvis」ですね。いうまでもなくエルヴィス・プレスリーの伝記映画。日本は2週間前からやってましたけど、ブラジルはちょっと遅れて先週末の公開でそれを見に行きました。それの感想を書こうかと思います。

もうすでにかなり日本でも話題にはなっているようなので、あえてここであらすじを繰り返す必要はないと思うので、僕の伝えたい要点だけ書きますね。

まず、この映画ですが、

僕の求める「最低ライン」はクリアしていた。

そこは素直に嬉しかったですね。

では、それがなにかというとですね

「プレスリー」でなく、エルヴィスを描いた映画だった!

ずばり、そこにつきますね。

これ、エルヴィスに慣れてないと「?」だと思うんですけど、とりわけ日本において、「プレスリー」と呼ぶか「エルヴィス」と呼ぶかで、日本人が彼をどう捉えているのかがわかる、というのが僕の何10年も前からの持論です。

というのはどういうことか。僕にとっての「プレスリー」のイメージって

こういうB級、C級の映画に出る歌って踊れるスター。こういう存在に成り下がっていた頃の彼ですね。

悲しいかな、日本での彼のファンって、このパターンからファンになったかたが多いんですよね。そして、日本では長いこと彼は「プレスリー」と呼ばれてもいて。だからこういう、ダサい大衆スターのイメージ、あるいは「古臭いロックスター、エンターティナーのイメージ」、これを僕は「プレスリー」だと思っています。

対して

この、「ロックンロールスター」として、世に恐れられながら登場した際のイメージ、これこそが僕にとっての「エルヴィス」です。

 この映画は、このエルヴィスが登場した際の危険なセンセーション。これを逃さず強調して描いているところは「よし!」でした。

とりわけ

          股間!!

ここをしっかり強調したのはうれしかったです。この股間のダンスが表現する動き、これがセックスをストレートに想像させたから、世の女の子たちが狂喜乱舞して興奮した。これこそがエルヴィスがアメリカを怖がらせた最大の理由だったわけですからね。

そして

こうしたアメリカ南部の黒人音楽への尽きることのないリスペクト。もう、ズバリこれですよ。これなしに「エルヴィス」は成立しません。

 これ、なんで僕、強調したいかというとですね、日本では1950年代にこの意味が理解されていたとはとても思えないからなんですよ。だって、映像をそんなに頻繁に見れてないから、あの股間のダンスの意味がわかってなかったと思うし、さらに日本の場合、エルヴィスは「カントリー&ウェスタンの新星」として紹介され、黒人音楽的な要素で理解されていたとはとても思えないんですよね。

だから、日本でも1959年に、エルヴィスをはじめとしたロックンロールのブームに影響を受けた人たちで「日劇ウェスタン・カーニバル」をはじめるんですけど、残念ながら、黒人音楽のニュアンスやセクシャルな危うさはここでは表現できていたとは思えないです。日本のロックがスタートした地点としては評価は惜しまないんですけど、これはしょうがないです。

 だからこそ、今回の映画で、そこのエルヴィスのルーツがしっかり描かれていたことには満足度高いんですよね。

そしてそれが

「ダサい映画スター」から脱し、1968年のNBCのクリスマス・ショーで復活した時のエルヴィス。この時の彼の新しい音楽スタイルのバックボーンになっていたもの。それがソウル・ミュージックとゴスペルにあったこと。ここもしっかり描かれていて満足度高かったです。ここでも、彼の尽きることのない南部黒人音楽への愛が描かれているわけですからね。

そしてそれに加えて

主演のオースティン・バトラーによる声の真似の精度の高さと歌。これも非常に満足度高かったです。バズ・ラーマンの映画って、出演者に実際に歌わせるアプローチとりますけど、これはその成功例ですね。よく、こんな芸当のできる人、見つけてきたなと感心しましたからね。彼の力が、この映画引っ張ってるところは確実にあったと思います。

 とりわけ、これまで僕が言ったような「エルヴィス」な要素を見つけてこなかった人、そして「ミュージカル映画」としての完成度を求める向きなら、この映画、この時点で大絶賛だとは思います。

が!

正直なところ、これ以外にだいぶ難点があった!

ごめんなさい。そこは感じちゃったんですよね。

まず、ひとつは不必要に長い。なにせ2時間40分でしょ?これ、この映画に限らず、最近の劇場映画の非常に悪い傾向ですけど、上映時間が無駄に引き伸ばされてますよね。あれは非常に遺憾と思ってます。

この映画の場合、その原因は


この映画の真の主役がはっきりしないからなんです!エルヴィスが描きたいのか、悪名高いマネージャーの、トム・ハンクス演じるトム・パーカー大佐が描きたいのか、これがどっちつかずなんですよね。

 バズ・ラーマン、おそらくその両者を描きたかったんだと思います。でも、僕からしたら、どっちかの時間を削って、フォーカスする人が誰かを決めた方が良かったと思います。絞らないから、とりわけNBCから後の展開がグダグダで無理やり引き伸ばしたように見えて、僕も間延びして時計見ちゃいましたからね。これは痛かった。

 たしかに、エピソードとしては、大佐が警備会社と永年契約してしまったがために、もしかしたら日本公演も実現してたかもしれないのに、それが結局起こらないまま終わってしまったことには憤りは感じたりはしたのでトリビアとしては面白くはあったんですけど、あの下からテンポ感が落ちましたからね。そこは非常に惜しかった。

おそらく、僕は思うにこれ

「アマデウス」でのモーツァルトとサリエリを意識して描いたんじゃないかと思うんですけど、あれほどのケミストリーも生まれていたとは言い難いかな。

あと、伝記映画につきがちな「事実と異なる点」ですね。これ、話の流れ的に問題ないときは多少違っててもいいとは思うんですけど

ロバート・ケネディ暗殺を1968年のクリスマス・シーズンに持ってきたのはまずかった!

だって、この事件の何が問題だったか。彼、大統領候補で、そのキャンペーンの期間中になくなってるんですよ。この年の6月です。民主党の有力候補だったのに。それこそ、民主主義が打ち砕かれた瞬間なんですよ。そして大統領選って11月の頭くらいに終わるものなんですよね。もう、大統領決まった後にロバート殺されたのでは意味がないんですよ。これはとりわけ、アメリカ人にとってはひっかかった描写だったんじゃないかな。他の国の若い人は気にならなかったと思うんですけど、ちょっと歴史にうるさい僕みたいなタイプだと、ここは引っかかりますね。

 あと、過去と、現代の音楽の融合。これ、バズ・ラーマンが好んで使う手法なんですけど、これが今回に関しては僕は正直イマイチでしたね。

これ、「ムーラン・ルージュ」や「グレイト・ギャッツビー」のときには聞いてたんですよ。やっぱ20世紀初頭の音楽をそのまま使っても正直限界はあるし、現代のアーティストとの組み合わせの意外性の面白さも遊べますしね。

ただ、エルヴィスともなると、彼自身の音楽そのものあ音楽遺産としてあまりに大きいでしょ?もっと、エルヴィスそのものをふんだんに使ってほしかったんですよねえ。オースティン・バトラーによるカバーを、オリジナルのイメージ壊さないアレンジでやるのとかも可です。だけど、「エルヴィスの曲をサンプリングした曲」あたりをかけても正直あまり効果があったとは思わないんですよねえ。

 だって、「ボヘミアン・ラプソディ」だって、今のアーティストによるクイーン解釈なんてやらせず、クイーンだけで十分酔わすことできてたじゃないですか。エルトン・ジョンの「ロケットマン」しかり。オリジナルそのものが強いアーティストは、その良さこそを生かした方がオーディエンスの満足度はより高いと思います。僕はもっとエルヴィスそのものが聞きたかったですね。

・・と、全体で見れば注文も少なくはない映画ですが、これが仮に「エルヴィスはほとんどこれまで知らまくて・・」という感じの人には、いい入り口として機能する映画だとは思いますけどね。




































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