追悼クリスティン・マクヴィー 英国女性ロックのパイオニア、世界一のバンドの双頭フロント・ウーマン
どうも。
いやあ・・・本当に今も信じられません・・・。
クリスティン・マクヴィーが亡くなってしまいました・・・・。
ご存知の方も多いと思いますが、かの伝説のバンド、フリートウッド・マックのキーボード、そして稀有な3人いるリード・ヴォーカリストのうちの1人として知られていました。
グループ内では決して派手さで勝負する人でこそ、なかったのですが、いやいや、彼女こそがフリートウッド・マックでしたよ。そして、ロック史における重要な女性アーティストのパイオニアでもありました。
彼女の功績を語って行こうかと思います。
①UKロック界の本格的女性アーティストの草分け的存在
まずは、このポイントを外して語ってはいけないと思います。クリスティンは1943年、昭和でいうと戦時中の18年ですね、イギリスは第2の都市バーミンガムの郊外で生まれています。
大学時代のいアートの学生だったんですけど、そのときにかねてからやってたピアノの腕前を買われ、ブルーズ・ロックのバンドに加入します。卒業後にロンドンに出てきてデパートの店員をやってたのですが、大学の時のバンド目とに誘われ加入。そのバンドは1968年にレコード・デビューすることになるのですが、それが
チキン・シャック!
この映像で一瞬、クリスティン、でてきます。このときの名前はクリスティン・パーフェクト。彼女はバンドでキーボード担当でしたが、アルバムで2曲ほど自作曲を書き、ヴォーカルも担当しました。
これ画期的なことなんですよ。「ロックをやる女性」ってアメリカだと1966、1967年にママス&パパス、ジェファーソン・エアプレインのグレース・スリック、そしてジャニス・ジョプリンと出てきますけど、イギリスだと
フェアポート・コンヴェンションのサンディ・デニーくらいなものですよ。「自分で演奏し、自分で歌う」という存在は。
あと、かのジョニ・ミッチェルだって、デビュー・アルバム出したの、1968年ですよ。それ考えたら、クリスティン、かなり先駆的存在なの、わかると思います。
さらにいうと、チキン・シャックが1969年にリリースしたこのセカンド・アルバム「OK Ken?」は全英9位と、初の全英トップ10を記録します。
しかし、この矢先にクリスティンは脱退してしまいます。
②(おそらく最初の)ロック・アーティスト同士の結婚
その裏でクリスティンは結婚をします。相手はこの当時、ロンドンのブルーズ・ロック・シーンで頂点のバンドだったフリートウッド・マックのベーシストのジョン・マクヴィー。これによりクリスティーンは名をクリスティン・マクヴィーに改めます。
フリートウッド・マックというのは、ロンドンのブルーズ・ロック・シーンにおいて名リズム隊だったドラマーのミック・フリートウッドと名ベーシストのジョン・マクヴィーが、名ギタリストのフロントマン、ピーター・グリーンを看板にしてイギリス国内でトップ10アルバムを連発する人気を博していました。
彼女はチキン・シャックを69年に脱退すると、70年に最初のソロ・アルバムを発表しますが、フリートウッド・マックのアルバム「ケルン・ハウス」にゲスト参加します。その「ケルン・ハウス」というアルバムは、それまでバンドの中心だったギタリスト、ピーター・グリーンが抜けてバンドが危機を迎えていた時期の作品で、いわばヘルプですね。この過程を経て、次のアルバムからクリスティンはマックに参加します。
③クリスティン加入と同時にマックはアメリカ拠点に
この「Future Games」というアルバムのときにクリスティンはマックに参加します。ただ、彼女がというより、この当時一緒にバンドメンバーになったアメリカ人、ボブ・ウェルチの影響でマックはこれまでのバリバリなブルーズのバンドから、もっとソウル、フォーク寄りのアプローチをしていくようになります。
この時期ですね。そして、クリスティンも、自分の書いた曲を、ピーター・グリーン後にバンドのヴォーカルになっていたダニー・カーワン、ボブ・ウェルチについで3番目のヴォーカリストでの立ち位置でしたが、曲を書いて歌うようになります。
これが最初の貢献曲ですね。この頃から、彼女の書く曲自体もブルースから一歩はみ出て、のちのフリートウッド・マックのスタイルに近いものになります。
https://www.youtube.com/watch?v=HiGEEHtumDM
続く72年のアルバム「Bare Trees」のこの曲はこの当時のバンドの人気曲のひとつにもなります。
この頃にマックはイギリスではかつてのトップ10常連人気が嘘のように人気がさっぱりになるんですが、アメリカでアルバムがチャートの100位以内に入るバンドになりなります。
④ウェルチとの双頭コンビでブレイク直前に
そして72年にダニー・カーワンが脱退。フリートウッド・マックは、ボブ・ウェルチとクリスティン・マクヴィーの2枚看板のバンドになっていきます。一枚は「Penguin」という73年のアルバムで、もうひとりの男性ヴォーカルも加えた作品を出したんですが、それがあまりうまくいかず、その年ももう1枚出した、このジャケ写の「Mystery To Me」というアルバムから、ウェルチ、クリスティン体制になるんですが
https://www.youtube.com/watch?v=BrFr4jB0quA
このくらいから放送で曲がかかるようになり、クリスティンのこの「Why」あたりも人気になります。
そして74年、この変なジャケ写の「Heroes Are hard To Find」というアルバムがはじめて全米トップ40(34位)まで上がるヒットとなり
このクリスティンの「Come A Little Bit Closer」も人気曲としてファンのあいだで長く愛される曲になりそうになっていた矢先、ボブ・ウェルチが脱退。バンドはまたも危機を迎えてしまいます。
⑤バッキンガムとニックスの加入でクリスティンとケミストリー。全米を代表する人気バンドに
1975年、フリートウッド・マックは、それまで無名の男女デュオ、バッキンガム/ニックスとして活動していたリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスの二人を加えることにし
このアルバム「Fleetwood Mac」を発表しますが、これが大成功します。
チャーミングなルックスと派手なファッション・センスでフロントで抜群のプレゼンスを見せるスティーヴィーと、控えめながらバンドを引き締めるタイプのクリスティンの2人のブロンドヘア・コンビがバンドにとっての新しい売り出しのスタイルとして強く機能するようになります。
この当時、「ロックで女性」といっても全然売れなかった時代に、バンド内で2人も女性がヴォーカルをとるなんてこと自体が異例中の異例だったわけです。そこに、カリスマ性が強く、サウンド・プロデューシングにたけたリンジーがもうひとりのフロントマン、かつギタリストとしてさらなるケミストリー。そこを、マクヴィー夫、そしてフリートウッドのタイトなリズム隊がサウンドを裏で支えるという、唯一無二のフォーメーションが完成していくわけです。
これがウケてアルバムはたちまち全米アルバム・チャートで1位を獲得。フリートウッド・マックはたちまち全米を代表する人気バンドになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=SXveFeQFyuU
それと同時に、クリスティンのソフィスティケイトされたソングライティング・センスもようやくポップ・ミュージック界全体に大きく知れ渡るようになります。
⑥夫婦仲決裂時に、ロック史上最大ヒット作「噂」誕生
そして1977年、フリートウッド・マックは「噂」を発表します。こないだマイケル・ジャクソンの「スリラー」の37週1位の話をしましたけど、こちらはその前の記録保持者です。31週の1位です。
このアルバムからは4曲の全米トップ10という、これもその当時の記録を作ったのですが
そのうちの第3弾、第4弾シングルがクリスティンの曲でした。特に「You Make Lovin Fun」はマックのソフィスティケートされた、のちにエブリシング・バット・ザ・ガールとかThe XXにも受け継がれたアーバン・ポップ・イメージの雛形になった曲だと思ってます。それから
「Dont Stop」は1992年の大統領選でビル・クリントンがキャンペーン・ソングで使ったことで再注目されてます。インパクト強かったんですよ。はじめてのロック世代の大統領誕生のイメージもあってね。
このアルバムの時に
来日公演もあって、NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で放送されてもいます。
この頃、人気絶頂だったんですけど、一方で彼らの仲、最悪だったんですよ。それはクリスティンとマクヴィーが離婚、恋仲だったリンジーとスティーヴィーが別離。そこに加えてフリートウッドがスティーヴィーに手を出した・・・。もう、恋愛関係ドロドロだったわけです。だから「歌うソープオペラ」などとも揶揄もされたんですけど、その現実のドラマからこの名作が生まれたわけです。
それなのに「私たちを結びつける鎖」って歌っちゃうところに、このバンドの強さがありました。
⑦80年代にマックのヒットに最も貢献
マックは79年にリンジー色の強い2枚組「Tusk」を出した後、80年代にスティーヴィー、リンジーがソロ作を出してかなりのヒットになるんですね。バンドに対しての求心力が落ちたわけではあるんですけど、その最中
https://www.youtube.com/watch?v=E0sha1XfHxw
82年の「Mirage」、87年の「Tango In The Night」の2枚のアルバムからは、彼女の書いて歌った曲が続々ヒットします。特に「Everywhere」は今日ストリーム数のもっとも高い曲のひとつにもなってますね。
クリスティンも80s、ソロは出してて
この曲がシングルで全米11位になってます。ただ、ソロのアイデアはあんまりなかったかな。それだけもっともマックに献身的だったのだと思います。
⑧低迷期もマックを支えた
1990年代、フリートウッド・マックはリンジー脱退で危機を迎えます。ここで、よせばいいのに代役を加入させたりしたものだから、これが大不評。人気が嘘のように下がります。
そこを支えたのもクリスティンで
1990年の「Behind The Mask」ではこの曲
スティーヴィーまで抜けてにっちもさっちもいかなくなった1995年の「Time」にはこの曲で気を吐きますが、低迷は止まらず。
⑨再集結も脱退。そして時間をかけての再加入
1997年、MTVのアンプラグドで、クリスティン、リンジー、スティーヴィー、マクヴィー、フリートウッドの黄金の5人が復帰。ライブ盤が全米1位にもなり、マックが復活します。
ただ、力尽きたようにクリスティンがマックを脱退してしまいます。
そこからマックは、2003年にアルバムを1枚出しますが、基本的にはスタジアム・ツアーバンドになります。これが内容ほんとうにすばらしくてですね、僕も2009年にニューヨークのナッソー・コロシアムで見てますけど、クリスティンいなくても、個々の個性が存分に出せた「さすが」の一言に尽きるライブだったんですよね。「これにクリスティンいたら、どんだけすごかったんだよ!」と本当に驚いたものです。
そうしたら
2013年、クリスティン、まさかのカムバックですよ!これは驚きました。この時のライブを体験できた人は本当に羨ましくて仕方ないですね。
このあとクリスティンは
リンジーとの共作アルバムを2017年に出しまして元気なところを見せてました。
そこからマックからリンジーが再脱退。よせばいいのに、また代役を加えてマックは混乱してたんですが、その最中にクリスティンは息を引き取りました・・・。
死後、スティーヴィーが「1975年に出会った時から最大の親友」という、泣ける追悼コメントを発表しています。
こうした彼女の偉大な奇跡を伝えるのに少しでも貢献できたら幸いです。RIP