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連載「バブルなんて大っ嫌いだった」②金で悩みも解消?学生たちの極端な効率主義
どうも。
さすがにフジテレビ主題にすると、今だったら読まれますね(笑)。結構な方に読んでいただいたみたいで嬉しいです。
今回の第2弾ですが、前回がテレビのカルチャーに関してのことだったので、今回は、そういった文化にも影響を受けやすかった、あの時代の学生について語ることにしましょう。
これも前回に続いて、バブル時代そのものだけでなく、その伏線から語っていくようにしましょう。
①80s前半、なんか異様に殺気立ってた中高生
その伏線としては、こういう文化がありましたね。
まあ、こういう時代でしたよね。「金八先生」の「腐ったみかん」のエピソードが1980年から81年にかけてだと思うんですけど、TBSが特に中高生非行の問題に力を入れてましたね。
これに続いて83年から85年にかけて「積み木くずし」「不良少女と呼ばれて」「スクール・ウォーズ」と続きましたからね。
これ、いずれもテレビドラマとしてはよく出来てたんです。少なくとも結末はぐれてた主人公の精神的な成長で結ばれるものだったので、見る価値はそれだけでもあったとは思います。
ただ、ですね
現実世界の方が実はもっと複雑だった
この問題が実はあるんですよ。
ヒットドラマの不良って、根がいいヤツだったり、頭が根本的によくてその後の校正もしっかりしてたんですけど、現実は必ずしもそうじゃなかったですね。
こういうドラマでは、例えば「受験戦争からはみ出してしまった人たちの悲哀」とか「家庭に問題が」で、そういう人たちに寄り添う感じだったじゃないですか。実際、そういう風にしないと、話になりにくいですよね。
ただ、あの当時、中学が歴史上最も荒れてて、中高生が世の中で一番怖い存在だった時代を体験している身からすると、「かわいそう」と言ってシンパシーを抱きたくなるような不良って、あんまりいなかったんですよね。
だって、そういう人たちって、あの当時、大半がクラスで目立ちたがるタイプで運動部所属だったんですよね。どちらかというと、「不良=強い」で、そのマチズモに憧れたタイプだったように、少なくとも僕には映りましたからね。だって、それが決まって運動部の人で、小学校の頃から、「彼、中学入ったら絶対ヤンキーなりそう」って予想ついた人がほぼそうなってるのを見てたら、そういう悲哀ってあんまり感じなかったんですよね。加えて、近所のそういう子だったら、その子のお父さんとか結構近所で有名だったりもして。で、そのお父さんからしてめちゃくちゃマッチョ・イメージ漂ってくる場合とか実際あったんでね。「そういう育ちだったんだよ」という感じではありましたね。
だけど、そういうものだとは思いつつも、あの時代の中学、なんか殺気立ってイライラしてる感じはあったんですよね。あれはなんなのかに関してはよくわかりません。でも、近い世代からの当時の話聞くと、それってまさに野球部をはじめとした運動部の理不尽な上下関係とかしごき、いじめの類が一番ひどかったのもその世代なんですよね。あれ、社会的な病理だったんじゃないかと、今にして思うんですよね。
で、皮肉にも、先生にたてついて暴れてたような人たちが、一番封建的な上下関係好んだりしてましたからね。それで、誰とは言わないけど、そういうヤンキー文化通ってきた人が芸能界のトップ立ったり、政界行ったりして、保守の代表とかなったりしてますよね。あれも今日に繋がってるとは思うんですよね。
②「ヤンキー怖いから勉強した」など、具体目標がない進学勢
で、あの時代に勉強して、進学校とか目指す人というのもすごく多かったし、それが過熱した時代でもあったんですよね、80年代って。。
でも、勉強してる理由に「ヤンキーいるような学校に行きたくない」というのが理由に割と当たり前のように言われてるとこがありまして(笑)。モチベーションとして、それはどうなのかなと。そりゃ確かに「教育環境のいいところに行きたい」に言い換えられることではあるけど、でも、それ以前に「勉強することによって、やりたい勉強がしたい」とか「なりたい職業に就きたい」とかのために進学ってするはずなのに、その肝心なところが現れにくい、まあ、これはいつの時代の日本でもそうだったりするのかな。
僕は親が教育熱心でしたけど、そういう「将来、何になりたいんだ」のモチベーションづけをすごく重視した人だったので、この点は幸いにして敏感でした。ただ、親が「将来、何になってもいい」という感じの人じゃなかったからメチャクチャ困りもしたんですけど(笑)、それはまた別の話ですね。
ただ、こういう親に育てられたから、高校の進学校いくような子って、みんなそういうとこしっかりしてるのかなと思いきや、これが全然そんなことなくて拍子抜けしてですね。「え〜、何のために勉強してるの?」と思うことはすごくありましたね。それくらい、あまりにも漠然とした子が多くて。「それじゃ世間がネガティヴに描きがちな、社会の歯車になるために目的もなく勉強してる子、そのまんまじゃん」とか思ってたとこありましたね。
だから
尾崎豊とは相性良かったんですよ。ちょうど1985年に高校生になる時に「卒業」が出るタイミングでね。
彼の場合、「15の夜」の歌詞ゆえに、ヤンキーの荒れる中学の側での方でむしろ語られてたイメージもこれ、未だに一部あると思うんですけど、僕からしたら、青学の高等部行くような勉強できる人が、「社会の歯車になって何がいけない」みたいなこと言った教師に反発して・・・みたいなことを語られたりしてたものだから、僕の心性にはシンクロしたところはあったんですね。
ただ、そこ以外がね、ちょっと素行の部分で共感できないところも少なくないし、直接知り合ったらトラブル多そうな人だなとも思うので(苦笑)オールタイム・クラスで好きかと言われたらそこは躊躇するところではあるんですけど、「レールとかベルトコンベアに乗せられて、あんまり考えないで楽な人生生きるなんて嫌だ」みたいな、ヘルマン・ヘッセとかJDサリンジャーみたいなメンタリティが感じられるところは好きだったりしたんですよね。
ただ、まあ、誤解されるところは多かったですね、彼。盗んだバイクとか窓ガラス割ったとか。「そんなの虚言癖が多いフォークソング部の部員なんだから、大目に見てやれよ」くらいに流してやってほしいなとあ思ってますけど。
③バブル・ファッションに身を包んだ、あまりにも効率的な人たち
で、1989年に大学入学するわけなんですが、まあ、前にも書いたことあるので言ってしまうと慶応大学だったんですよね。
僕の場合、高校の時から、いや小6の時からマスコミ志望で、放送行きたかったというのが希望としてあって。でも、どうやって行ったら良いのか具体的に研究うまくできなくて、よりエンタメ寄りに行こうとすると、「そんなの下請けで勉強してなくてもできる」みたいな感じで母親が怒り出すからうまくコミュニケーションできなかったので、とりあえず東大、早慶受けてどこか受かればいいかなくらいの感じで受験して受かったのが慶應経済だったんですけど、これが甘かった!こういうとこ、しっかりしてなかったのは僕自身のあの当時の過失ですね。ここで辛い日々を味わうことになりましたから。
経済学部行ったのは経済が勉強したかったわけじゃなく、親が早慶でさえ文学部受けさせてくれなかったからなんですよね。ぶっちゃけ、そこにしか勉強したい科目なかったにもかかわらず。これは突っぱねられなかった自分の責任なんですけど、とはいえ、親子仲の不和の始まりだったのは確かですね。
そんな感じだったらか「慶応ボーイになった!もてたい!」なんて考えはゼロで。普通に勉強したいこと勉強したいくらいしか考えてなかったし、恋愛とかに関しては、その時、たまたまその関心が薄れてる時で。「大学デビュー」とか微塵も考えてなくて。たくさんライブ行けたり、マスコミに就職できたらいいなとか、そういうことしか考えてなかったです。
そんな感じだったから、それはそれはものすごいカルチャー・ショックでしたよ。ポロシャツの襟立てて、セーター肩からかけたツーブロの髪型の、「それ、トレンディ・ドラマで見たやつだ」みたいな男と、トサカ前髪のソバージュにしたばかりの女の子と。あの、「見て違和感しかわかない、トレンディ・ドラマに出てくるようなファッションだ!」と、それだけでクラスの人たちと友達になるのをほぼ諦めて(笑)。
それで勉強の話になると、それこそテニス・ラケット抱えた肩セーターのやつらが、授業毎回でてるような人からいかにノートを借りて、授業出るのさぼるかの話とかよくしててね(笑)。まあ、そういう要領のヤツ、いつの世の中にもいるとは思うんですけど、中にはマイカー通学とかもいた、そういう感じの人たちがそういうのしてると、効果、倍じゃないですか(笑)。
で、ちょうど時代が共産主義崩壊の時代なんで「マルクス経済なんて学ぶ必要ない」なんて空気が蔓延してて、それ専門で教えてる教授のこと上から目線で語る人も多くてね。そりゃ、ベルリンの壁崩壊する年に今更共産主義の国家を尊ぶ人なんて僕自身も含めて誰もいなかったけど、それとは別に「資本論」やそれが出てきた背景くらい考えるのは無駄にはならないし、それこそあの時代、またレーガン退いて間もなくてサッチャーも在任中だったけど、ネオリベばっか奉ってどうすんのと、今にしてみれば思いますね。
だからでしょうね。湾岸戦争とソ連崩壊が起こった直後だったのにも関わらず、社会にそれとは別の問題が浮上して、1992年にブッシュがクリントンに大統領選に負けた選挙以降の歴史に弱い人が日本で多いのは。「共産主義が終わった」で歴史が終わってる人多いから、僕の年代でもロックやってるのに保守のやつがいたりするんじゃないかなと思います。このことについては次回、詳しく話しますね。
まあ、それもそのはず、キャンパスにこの人いたんですよ。
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はい。この人が人気の授業持ってました。ゼミも僕の時代くらいから始まったんじゃなかったかな。それとも後輩の話だったかな。いずれにせよ、ゼミでも人気だったの覚えてます。まあ、竹中氏が尊ばれていたような学校の気風ですよ。
で、ちょうど僕が在学中に
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慶應湘南藤沢キャンパス(SFC)と言うのができます。1990年、2年生の時でしたね。あの当時、学内でも「新しく増設されるからには、従来にない新しい視点での学問をやるのだろう」と期待されてて、僕自身もその時はポジティヴにとらえてました。
ただ
竹中平蔵
— 猫のリュックくん (@nasitaro) October 7, 2022
夏野剛
古市憲寿
たかまつなな
大空幸星
全部慶應SFCなのはどう見ても偶然じゃねえわな。最早虎の穴だろ。
こうなっていると聞いて、「ああ、あの大学に進歩的なものは期待できないのか」と思い愕然となったのも比較的最近でしたね。
こういう環境だから、同級生とか先輩、後輩と話をしても合わないわけですよ。あの頃は具体的にここまで悩んでいた訳じゃなくて空気で憂鬱になってたわけですけど、それに輪をかけて嫌だったのが。
悩んでるの?なんか暗いなあ。こういうときは一杯飲んでパーっと盛り上がんないと!
みたいな空気が当たり前のように充満してたことです。
当時のメディアでも既に言われてましたよ。あの当時、「真面目な人をバカにする風潮がある」って。とにかく金があるというだけですべての悩みが解消されたかのような世の錯覚みたいのがありましたね。あのとき思ったものですけど「あの、荒れる中学のとき暴れてたヤツも、満たされちゃってたりするのか?」と思ってましたから。なんか、日本に足りないこととか言おうとすると「いや、日本は豊かだぞ」と同調圧力かけようとするやつが、僕の所属した、あんまり人気のなかったイギリスの思想ゼミでさえいたし。一番バブルな雰囲気を避けて入ったとこでさえ、そんな感じでしたからね。
そんなわけで、かなり欲求不満がたまった大学生だったわけですけど、あとになってブラジル人の妻に言われましたよ。「よりによってなんでビジネス専攻にしたんだ。あんなとこ、世の中で一番コンサバなヤツが行くとこって、当たり前のことなのに」とあっさり言われて。「えっ、それ、誰か教えてくれよ、あのときに」と、それ言われたときに思いましたけどね(笑)。
まあ、避けようと思えば避けられたものを、よりによってバブル時代の一番嫌みなとこと正面衝突してしまったわけですけど、あの体験が今の自分を反面的に作ったとは思うし、忘れられない悪夢として血肉化したところはあると思いますね。
あと、最近思うんですけど、今の日本って、あの頃のあんまり考えない効率と要領重視のエリートと、ヤンキーの封建主義が手を組んだ感じもして、海の外から見ていてそれも嫌ですね。80sの負の遺産がそのまま継承されてる感じがして。