十字架とリンチの木
ジェイムズ・H・コーン『十字架とリンチの木』を読み終えた。タイトルから察せられる通りかなりヘヴィな本だったけれど、コーンの言葉遣いはとてもシンプルで、回りくどい表現が一切無いので、読んでいてその内容(実際にあったリンチ事件についての詳細な記述)にキツさを感じることはあっても、読みづらさを感じることは全くなかった。自伝『誰にも言わないと言ったけれど』で「教育を受けられなかった黒人たちにも理解出来る言葉で書きたかった」と書いていた通り、コーンの本はいずれも読み易い。コーンの主張もまた彼の言葉遣い同様極めてシンプル且つ明快で、無神論者の自分が読んでもストンと腑に落ちるものだった。
キリストはキリスト教の影響力を恐れたローマ帝国によって十字架に磔にされ殺された。黒人たちも同じようにアメリカにおいて圧倒的に優位な存在である白人たちによってリンチされ、木に吊るされた。キリストも黒人たちも権力によって殺された。故にキリストは現代のアメリカにおける黒人たちを体現する存在であり、十字架はリンチの木を象徴している。何故白人たちはそのことから目を逸らすのか。白人のキリスト者たちは黒人たちをリンチにかけながら、何故日曜日には平然と教会で祈ることが出来るのか。それは白人たちが聖書を自分たち都合の良いように解釈し、広めてきたからだ。
この本でのコーンの論旨を要約するとこんなところだろうか。
「汝の隣人を愛せよ」という聖書の教え(クリスチャンでなくとも知っている有名な教えだ)に明らかに反しているにも関わらず、キリスト教国家であるアメリカに住まう白人たちは黒人たちを迫害し続けてきた。その矛盾に白人たちは気付いていないのか、気付きながらも目を背け続けているのか。或いは白人より劣る存在である黒人は隣人には当たらないから聖書の教えとは矛盾していないとでも考えているのか。
「とはいえ、もう一つ別の想像力が必要であるーそれは十字架のメッセージを自分自身の社会的現実に関係づけ、「彼らは神の子を再び十字架につけている」(ヘブライ六・六)ことを洞察する想像力である。イエスと黒人たちはどちらも「奇妙な果実」である。神学的に言うと、イエスは「最初にリンチされた方」であり、アメリカの国土におけるすべてのリンチされた黒人の死体を、予示された方である。彼もアメリカにおいて黒人民衆をリンチしたのと同じ支配力と権限を持つ人々によって、十字架につけられたのである〜(中略)〜白人暴徒が一人の黒人をリンチする度に、彼らはイエスをリンチしたのである。リンチの木はアメリカにおける十字架である。それゆえアメリカのキリスト者たちは、自分たちがわれわれのただ中における十字架につけられた死体においてのみイエスに会うことができるということを理解する時に、初めて真の十字架のつまずきに出会うであろう」(ジェイムズ・H・コーン『十字架とリンチの木』より)
「奇妙な果実」というのはルイス・アレンことエイベル・ミアロポールが作詞・作曲し、ビリー・ホリディの歌唱によって有名になった歌のことだ。
Billie Holiday「Strange Fruit(奇妙な果実)」
「奇妙な果実」(作詞・作曲:ルイス・アレン)
南部の木には奇妙な果実がなる
葉には血を滴らせ、根にも血を滴らせ
黒い体が南部の風に揺らいでいる
ポプラの木から吊るされている奇妙な果実
輝かしい南部ののどかな景色
膨らんだ目と歪んだ口
甘く強烈なマグノリアの香り
その時突然発する焼かれた肉の臭い!
ここにはカラスが啄む果実がある
雨に打たれ、風が舐める
それを太陽が腐らせ、木から落ちていく
ここには奇妙な、苦い果実がある
「私が「奇妙な果実」を書いた理由は、私がリンチを憎み、不正を憎み、それをいつまでも続けている人々を憎んでいるからである」(エイベル・ミアロポール)
「その光景は・・・何日間も私を悩ました」(エイベル・ミアロポール。ローレンス・バイトラー撮影によるトマス・シップとエイブラム・スミスのリンチ写真を見て)
十字架はリンチの木であり、磔にされたキリストはリンチされ、吊るされた黒人たちの体現者である。それを論拠に白人たちの欺瞞や不正を白日の下に曝け出していくコーンの筆致は鋭く、辛辣で、容赦が無い。が、僕がこの本を読んで胸を打たれたのは、この本が白人たちへの批判だけでは終わらなかったこと、その先のヴィジョンを提示しようとしたことにある。本書ラストの「むすびにかえて」を読みながら、身体の震えを抑えることが出来なかった。
「白人たちはわれわれにとって悪い兄弟であり、姉妹であるかもしれない。だがそれでも彼らはわれわれの姉妹であり、兄弟である。われわれは信仰と悲劇によって、アメリカで結びついているのである。われわれがお互いに向かってぶつけ合うあらゆる憎悪も、われわれの間の奥深く流れている愛と連帯を壊すことはできないーそれは黒人たちを力づけ、手を広げて多くの白人たちを受け入れさせた愛であった。そしてその白人たちも、その同じ愛によって力づけられ、黒人の自由探究運動に自らの命を賭けたのである。黒人と白人ぐらい、アメリカにおける二つの民が、暴力的でありつつ愛し合っている出会いを、経験したものはない」(ジェイムズ・H・コーン『十字架とリンチの木』より)
「黒人と白人の間のいかなる深淵も、克服できないほど深くはない。なぜなら、われわれの間の美は、われわれの間の野蛮性よりも永続的であるからである。神が合わせたものを、人が離すことはできない」(ジェイムズ・H・コーン『十字架とリンチの木』より)
コーンが、この本が凄いのは黒人たちの差別からの解放だけではなく、いつか白人たちを許し、和解することが出来るはずだという希望を最後の最後に提示したところにある。
コーンの裡で激しく燃え盛る白人たちの欺瞞や不正に対する怒りの火は終生消えることがなかっただろうと思う。が、その火の源=コーンを突き動かしたのは「希望」、更に言えば「愛」以外の何ものでもなかった。
一本の蝋燭を想像してみて欲しい。燃え盛る火が白人たちの欺瞞や不正に対する怒りだとしたら、その火がともる蝋燭の芯は「希望」であり、「愛」であることを。
コーンは同胞である黒人たちだけではなく、白人たちを、更に言えばアメリカという国をも抱き締めようとしているのだ。いつの日かすべての黒人たちが解放される時には、白人たちを許し、白人たちと和解することでアメリカという国を良きものにしたいという大いなる愛。アメリカという国が抱える業の深ささえも受け入れ、抱き締めようとする余りにも大き過ぎる愛。何と困難な道を歩もうとするのか!そのことに僕は強く胸を打たれた。
イエスを磔にした十字架=黒人たちを吊るしたリンチの木に救いに繋がる希望を見出そうとすること。それがコーンにこの本を書かせたのだと思う。アメリカにおける黒人の歴史を考えたら、そうした希望を抱き続けるのがどれだけ困難なことかわかるだろう。信仰心という堅固な杖があったからこそ、コーンはその困難な道を歩み続けることが出来たのではないか。
行きつけの書店ではコーンの著書は「宗教」のコーナーに置かれている。コーンが神学者であるから当然といえば当然なのだけれど、コーンの本を読むのにクリスチャンであるか否か、何らかの宗教を信仰しているか否かは関係無いと思う。コーンの本は「神学」というある種の敷居の高さを感じさせる言葉に反して間口が広い。もっと広く、多くの人に読まれるべきだ。差別問題に関心がある人は迷わず手に取るべきだ。コーンの著書を3冊読んで改めてそう思った。
最後にコーンに師事し、コーンの遺作となった『誰にも言わないと言ったけれど』を訳した榎本空さんのインタビューを載せておく。
追記(2023.5.3)
いきなり神学というのは躊躇してしまうけれど、ジェイムズ・H・コーンという人物には興味がある。そんな人は先ず榎本空さんの『それで君の声はどこにあるんだ?』を読むことをお薦めする。
コーンの本で先ずは最初に読むなら『誰にも言わないと言ったけれど』をお薦めする。自伝的な一冊で、コーンがどのようにし自らの思想を「黒人神学」に鍛え上げてきたかがよくわかる上に、コーンの人となりもよく伝わってくるので入門書として最適だと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?