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戸田真琴『永遠が通り過ぎていく』

永遠とは一体何なのか。

ここのところずっとそのことばかり考えている。きっかけは先日発表された戸田真琴さんの初の短編小説『海はほんとうにあった』を読んだことだった。少し前にアップした記事(下にリンクを貼っておくので興味がある方は是非ご一読下さい)にも書いたように、小説のタイトルと物語のラストの海辺でのシーンによって、詩人アルチュール・ランボォの「永遠」という詩の有名な一節を連想させられたのだ。

「また見つけた
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が」

永遠とは一体何なのだろう。四六時中頭を悩ませているわけではないのだけれど、一度考え始めると思考の歯止めが効かなくなる。考えれば考えるほどにわからなくなって、終いには「永遠」という概念がゲシュタルト崩壊を起こし、途方に暮れてしまうのだった。
自分の側に引き寄せてやれば手掛かりくらいは掴めるだろうか。或る時にそう思って、自分にとって永遠と形容出来そうなものが何かないかと考えてみたのだけれど、何ひとつ思い浮かばず、またしても途方に暮れてしまった。
どうやら僕にとって永遠とは漫画や小説等の表現物で使われるような言葉であって、現実感に欠けるもののようだ。想像力の欠如。感受性の衰え。だとしたらシンガーソングライターとしては致命的じゃないか。そう気付いて悲しくなった。

先日、再上映されることになった戸田真琴さんの初監督映画『永遠が通り過ぎていく』を観に行ってきた。二年振り、二度目の鑑賞だ。一度観ただけではわからないところがあったので、もう一度観たいとずっと思っていた。そのものズバリなタイトルを冠するこの映画を観ることで永遠が何なのか少しはわかるのではないか、そんな気持ちもあったと思う。

エッセイ集やnote.等における文章表現と映画『永遠が通り過ぎていく』には大きな違いがある。誤読のしようがないくらいわかりやすい前者に対して、後者は観る者によって受け取り方がまるで変わってくるだろうということだ。その違い、落差の大きさに驚いたのは僕だけじゃないと思う。

戸田さんのエッセイ集『あなたの孤独は美しい』を読んで真っ先に思ったのは、言葉遣いと言葉の選び方が尋常じゃないくらい平易で丁寧だということだ。戸田真琴ワールドへの入門書(と僕は受けとめている)であるということを差し引いたとしても、ちょっと常軌を逸しているのではないか?一見特に変わったところは無いように思われる文章の中に、僕は狂気に似たものを感じた。

何故そこまでするのか?

戸田さんは自覚しているのだ。言葉が不完全であるということを。思考と言葉との間には乗り越え難い大きな裂け目があることを、思考を完全な形で言葉に置き換えることが不可能であることを知っているのだ。それでも誰かに何かを伝えるためには言葉を尽くさなければならない。そうして極限にまで選び抜かれた言葉たちで綴られた文章の中に「誰のことも置き去りにはしない」という決意のようなものを僕は感じるのだ。僕が戸田さんの文章に心をグッと掴まれる最大の理由はそこにある。

映画『永遠が通り過ぎていく』は温室という異様な空間で繰り広げられる密室劇『アリアとマリア』、寄る辺無い二人の男女の刹那的なロードムービー『Blue Through』、ミュージック・ビデオのような体裁を採った『M』の三本の短編によって構成されている。鋭利な刃物の切先を喉元に突き付けられているような緊迫感が通奏低音として在りながら映像はあくまで美しい(それも残酷なまでに・・・!)ので、否応無しに引き込まれてしまうのだけれど、いずれも明快なストーリーを持たない(否、「背後に隠れていて見えないだけで、ストーリーが無いわけではない」という方が正しいか)ので、どう受け取るか、何を感じ取るかは完全に観る者の感性に委ねられている。難解だと感じた人もいるだろう。正直に告白すると、僕もそう感じた一人だ(念のため。難解なことを悪いことだとは思っていないです。何だかよくわからないけれど素晴らしい、映画に限らずそういう表現物は沢山あるし、逆にわかりやすいけれど全然面白くない、そういう表現物もあることを想起してみてもらえれば、僕が言わんとしてることがわかってもらえると思います)。
観る者の受け取り方次第で如何様にも解釈出来る、そういう映画は他にも沢山ある。僕が引っ掛かったのは、この映画に十人十色の解釈(「誤解」と言い換えることも可能だろう)を許さぬかのような切実さを感じたことだ。これは一体どういうことなのだろう・・・?
難解ではあるのだけれど、読み解くためのヒントが無いわけではない。戸田さんの文章を読んだことがある人ならば『アリアとマリア』に戸田さんの自伝的要素を見出すことは容易いだろうし、大森靖子さんの「M」という曲の背景を知る人ならば、同タイトルの『M』が単に戸田さんによるミュージック・ビデオというだけではなく、戸田さんから大森さんへの映像での返歌、歌と映像による往復書簡という捉え方も出来るだろう。が、それらはあくまで「そういう解釈も可能である」というだけのことだ。十人十色、人それぞれの解釈と言えば聞こえは良いけれど、言ってしまえばそれは誤解に過ぎない。エッセイ集やnote.等から痛いほどに伝わってくる「誰のことも置き去りにはしない」という決意、それを想起すると戸田さんが間違った伝わり方を許容する人だとは思えないのだ。曖昧さを完全に排して自らを差し出す、戸田真琴とはそういう人ではなかったか?

ふたつでひとつであるものを思い浮かべてみる。たとえば一枚のコインの表と裏のような。

戸田さんの文章は映像を喚起させる力がずば抜けている。小説『海はほんとうにあった』は現時点での最高到達点と言えるだろう。まるで自分の目の前で繰り広げられているかのようにはっきりと情景が思い浮かべられるのだ。対する映画『永遠が通り過ぎていく』は映像によって編まれた散文詩のようだ。一見真逆のようではあるけれど、決して切り離されているわけでも分裂しているわけでもなく、互いを支え合っているのではないか?文章と映像。ふたつでひとつ。そう、表と裏とでひとつの形を成す一枚のコインのように。

本当は難しいことなんて何もなくて、ただ見つめ返す、それだけで良いのではないか?映画という形で戸田さんが僕らに見せようとしてくれているものを、見過ごさぬように、見誤らぬように、しっかりと見つめ返す。それだけで良いのではないか?

一回目の鑑賞を終えた後、暫くはこんなことを考えていたのだけれど、とっ散らかった考えは一向にまとまらず、結局感想を書くことが出来なかった。

「そんなに肩肘張りまくってたら大事なものを見落としちまうぜ?」

確かにそうかもしれない。だから二度目の鑑賞となる今回は思考を完全にオフにして、ただただ映像に没入するつもりでいたのだけれど、海や空、太陽がスクリーンに映し出される度に『海はほんとうにあった』との関連性について思いを巡らせてしまったりして、結局は今回も思考をフル回転させながら観てしまった。

(『海はほんとうにあった』は文章表現と映像表現との中間に位置するもの、両者を繋ぐものであるように感じた。と同時に、小説という体裁ではあるけれど、「文章による映画」と形容することも可能だと思っている。)

何でもかんでも解釈しようとする必要は無いということ、全てのものに意味を付与する必要は無いということ。どちらもわかってはいる。それでも解釈しようと、意味を見出そうとしてしまうのは、戸田さんがこの映画で伝えようとしていることをただの一滴もとり零さずに受けとめたい、戸田さんの見ているやり方で自分も世界を見てみたいという気持ちが強くあるからなのだと思う。思わず知らず肩肘を張ってしまうのも当然といえば当然なのだ。

幸いなことに今回の再上映は期間が長いので(12月22日まで)、もう一回は観に行くチャンスがありそうだ(生オーディオコメンタリー回に行けないのが残念でならない)。次こそは肩の力を抜いて、ただただ映像に没入するように観たいと思っている。

それにしても「永遠が通り過ぎていく」とは一体どういう状態のことをいうのだろう。

「永遠」を辞書で調べてみた。「いつまでも果てしなく続くこと」「ある状態が時間的に際限なく持続するさま」とあった。どちらも僕が認識している通りの意味合いだ。永遠は永遠であるからこそ通り過ぎたりせずに、いつまでも此処に留まり続ける、そういうものではないのか?

帰りの電車に揺られている間にスイッチが切れてぼんやりしてしまったのは、夜勤明けに帰宅せずにそのまま映画を観に行ったからだろう。電車に乗り込んで暫くの間、虚脱した状態で窓の外をぼーっと眺めていた。と、突然いくつかの過去の記憶が溢れ出さんばかりの勢いで頭蓋の中を満たした。脱力することで自分が器のような状態になったのだろうか。

「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

物心がついてから20代半ば過ぎまでただ只管に鬱屈とした日々を過ごしてきた僕には、若き日々が美しかっただなんて口が裂けても言えない。あの頃に帰りたいというような若かりし日々というものを僕はひとつも持っていない。それでも、そんな僕にも遅れてやってきた青い春の日々と呼べるような季節が確かにあった。それは余りにも短い季節であったし、若いと言えるような年齢をとうに過ぎていたけれど、確かにあったのだ。あの日あの時に体験したいくつかの出来事、目に焼き付けた風景、僕の心を打ち震わせた様々な感情。ふとした時に脳裏に鮮明に浮かぶそれらを、今なら「永遠」と形容しても良いように思えた。

電車に揺られながら、僕はとっくの昔に通り過ぎてしまった永遠を思い返していた。それは生きながらに見る走馬灯とでも呼べそうな体験だった。

走馬灯。

『永遠が通り過ぎていく』のエンドロールで流れるのは「走馬灯」という曲(AMIKOさんの曲で、後に「ダンスホール」に改題された)だ。凡そこの世のものとは思えないくらい美しい曲で、会場の灯りが点いた瞬間にスマホを取り出して誰の曲か調べたっけ。

AMIKO「ダンスホール」

あぁ、そうか。そういうことなのかもしれないな。

『永遠が通り過ぎていく』で戸田さんが見せてくれようとしたものが何なのか、未だに僕は何もわかっちゃいないのだけれど、それでも自分の中で疎らに散らばっていた幾つかの点と点が線で結ばれたような感覚を覚えた。今はそれだけで十分だ。


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