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「叩き手」は「聴き手」の気持ちがわからない
毎日noteを更新していますが、更新するときにいつも心がけているのは過剰な自意識を捨てて、読者目線でその文章を読み返すこと。毎日、インプットを大量に行って、その中から「これは」と思う内容を言語化する作業を行っています。そして、発信したnoteを読んでくださる方からご感想なんかをいただくとめちゃくちゃうれしい。そんな喜びや感動の「流れ」「循環」を構築したいというのが、noteを更新するモチベーションにもなっています。
ところが、バックナンバーを読み直していくと、意味がわからない文章や、えらそうな言い回し、ドヤ顔が浮かんでくるような傲慢な表現を目にすることがあります。そのたびに、こんな文章を読まされる「読み手の気持ち」を憂い、「読み手の時間を奪っている」と猛省しています。100日や200日前の投稿だと、どんな意図を持って書いたのか記憶が定かではなく、だからこそ第三者の目線で読み返すことができるのですが、「おいおい(汗)」とツッコミたくなるような内容に出くわして赤面してしまうのです。
noteを更新するもう一つの理由は、インプットした内容の歩留まりを高めるため。せっかく学んだ知識を忘れないように、自分なりの言葉に編み直してまとめる作業を行っています。そしてその習慣が、知識の定着に加え、文章力、語彙力の向上、スピーキングのレベルアップ(書けないことは話せない)につながるという副作用を生み出します。そういう意味でnoteの更新は「自分のため」に行っていると言っても過言ではありません。
さりとて公に文章をさらしているわけであり、フォロワー数も2,000人近くに到達したので、「読者」がいることは意識下にあってしかるべき。ですが自分視点のみで文章を書き、さらっと見直して「よし」と気分よく投稿ボタンを押したりするあたり、「察してくれるだろう」といういささか失礼な思いが透けて見えます。そしてそんな「ニュアンスを汲み取ってくれるはず」という希望的観測で発信する自分にはやはり疑問を持つべきだとも思いました。
冒頭で示した通り、「過剰な自意識を捨てて、読者目線でその文章を読み返す」ことを自戒を込めて毎日心がけているのはこういった思いから。まだまだ修行が足りていないので、今日も早速、欠陥のある文章を書いてしまっているかもしれませんが、少なくともそういう心がけだけは失わず、丁寧に発信していきたいとふと、あらためて感じた次第。自分に言い聞かせるように、本稿をまとめてみました。
そろそろ秋の足音が聞こえてきそうですが、「赤とんぼ」という日本古来の歌についてはメロディや歌詞が私たちの心に息づいています。ですが、声を発せずに、頭の中で赤とんぼを歌いつつ、指をトントンしながらリズムを取っている人が「何を歌っているか」を、第三者が当てるのは至難の業です。「叩き手と聴き手」の実験では、聴き手が曲名を当てる率は、叩き手が50%と予想し、実際はたったの2.5%に過ぎませんでした。
叩き手には知識(曲名)が与えられているため、その知識のない状態が想像できません。曲ではなくコツコツという脈絡のない音を聞かされる聴き手の気持ちが、叩き手にはわからないのです。これを「知識の呪縛」といい、いったん何かを知ってしまったら、それを知らない状態がどんなものなのか、うまく想像できなくなるという現象です。
自分は傲慢な「叩き手」になっていないか。曲名を知らない聴き手の気持ちを想像できているかどうか。自信過剰を捨てて、読者目線でその文章を読み返すことができているかどうか。自問自答の日々です。
久保大輔