わたしの正義について−6.旅をさせるロシア
数年前に某サイトに掲載した書評ですが、わりと力を入れて書いたので再掲します。ロシアシリーズはこれで終わりです。
リシツキーを追いかけて
人からなぜか「よく海外旅行をしていそう」と言われがちですが、実は2回しか渡航経験がありません。その2回のうちの1回、初の海外が1999年のドイツです。旅行が好きなわけでもなかった私がドイツ行きを決めた理由はすべて、今回関連本をご紹介するエル・リシツキーにありました。CeBIT(見本市)などで有名な北部ハノーファーにあるシュピレンゲル美術館で、リシツキーの大回顧展「JENSEITS DER ABSTRAKTION(Beyond Abstraction/抽象を超えて)」があると知り、「絶対これは行かなければ、私が行かなければ誰が行くの」とまた思い込んだのです。
リシツキーは、ロトチェンコほど一般的に知名度はないかもしれないけれど、ロシア・アヴァンギャルドが生み出した重要な芸術家です。二次元で空間を表現する実験「プロウン」シリーズなどの平面作品や芸術評論、グラフィック、写真、建築と幅広いジャンルで活躍しましたが、代表的な仕事としてあげられるのが、本の装幀やエディトリアルデザインです。中でも、マヤコフスキーの詩集『声のために』では、今や本やWebデザインでおなじみの「タブ」の概念を持ち込み、グラフ誌「ソ連邦の建設」では遠近法を多用した写真やコラージュによるエモーショナルなビジュアル表現を生み出してプロパガンダに貢献しました。ちなみにこの手法は、原弘が手がけた日本のグラフ誌「FRONT」にも大きな影響を与えています。さらに言えば、現代のCDや書籍などのデザインソースとして見かける率が高い芸術家でもあります。そんなリシツキーを、「まだ個人のアーカイヴをまとめたそれらしい文献が日本にはないから」と論文のテーマに選んでいたので、こんな話へと繋がっていったのでした。
当時の日記を見ると、「リシツキー展示×2とロトチェンコの展示を4月の終わりまでやってるらしい」、「ユダヤ美術館ってまだ入れないらしいけど建物だけでも見たい。あとバウハウス美術館に行きたい」と書いていました。でも「ほんとはロンドンに行きた」かった人間なので、ドイツ行きがロシアやロンドンより先になるとは正直想定外でした。しかも当時のドイツのパッケージツアーといえばライン川やノイシュバインシュタイン城周辺など南を巡る行程ばかりで、ハノーファーはもちろんベルリンなどの北側は個人旅行(か自分で行程が組む必要があるビジネスユース)しかない地域。バックパックを許してもらえる状況でもなかったので、心理的にも物理的にも、とにかく出発までの準備がものすごく大変だった記憶があります。
Trance Europe Express
それ以前に、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家の大回顧展なのに、なぜロシアではなくドイツなのかと思われる方がおられるかもしれません。ロシア・アヴァンギャルドは、ペレストロイカ、グラスノスチを経て正しく再評価されるまではロシア国内では気軽に触れられる存在ではなく、その間に作品が霧散してしまったことで一括して見られる場所がほとんどありませんでした(だからこそ、第3回で書いたロトチェンコのアーカイブは貴重)。むしろドイツやフランスなどロシア以外のヨーロッパ諸国、またアメリカなどに作品が保管され、研究が行われていることが多かったのです。特にドイツはバウハウスの発祥地であり、ロシア・アヴァンギャルドとの繋がりも大きかった国。さらにハノーファーは、ダダイズムやロシア・アヴァンギャルドで活躍し、リシツキーとの親交もあった芸術家クルト・シュヴィッタースの出身地です。リシツキー自身も在住期があった土地なので、「地元ゆかりの芸術家」として研究が行われると考えれば納得もいきやすい。さらにヨーロッパ諸国は地続きなので、鉄道による人や作品の移動がしやすかったこともあるでしょう。
ちなみにシュピレンゲル美術館は個人コレクションをベースに開かれた施設で、元々はドイツ表現主義などの作品が中心でした。それが、1994年にシュヴィッタースのアーカイヴ整理や研究が始まったことで、リシツキーも含めた現代芸術の作品収集や研究が急速に進んだそうです。ロシアでは邪険に扱われていた作品が国外で重要視され、保存され、研究された結果。それがちょうど形になって見え始めた頃の展覧会だったのかもしれません。建物もとてもモダンでかっこいいので、もしハノーファーに行かれる方がおられたらぜひ足を延ばしてみてください。
9,000キロ先のホワイトキューブ
現地では、再現されたリシツキー建築「展示室」に実際に入ったり、ドイツ語の関連書籍をうっかり山ほど購入してしまったり、重すぎて船便で送ったり、シュヴィッタースの「メルツバウ」も体験したりと、許容量越え寸前の情報量にずっと興奮しっぱなしでした。リシツキーは建築設計もしたので、再現されていた「展示室」の空間を実際に体験できたことは大きいのですが、平面でも立体でもなんでも、本物はやはりオーラがあるし、もの自体の強度がもう全然違います。大好きな「赤の楔で白を討て」を目の前にした時は、「やっと見られた!」とうっかり口にしてしまったくらいです。
入口で展示看板の撮影をしていいかと尋ねたら、監視員のお兄さん(ものすごく男前だった)が「僕はこれから休憩で、もう仕事中ではないから(=撮影どうぞ)」と見逃してくれた、といううれしい出来事もありました。若いのになんて粋なんだろう、と感心したなあ。あと、帰国後に京都の輸入美術書店に行ったら、ドイツですら一冊も見かけなかった文献がまとめて見つかり「なぜここに!?」というオチもありましたが、なんにせよ、すべてがよい思い出になったことは間違いありません。
そういえば、ハノーファーは「EXPO2000」の開催地だったんですよ。開催直前の活気は外国人の私にすらわかるほどで、街全体にどことなくふわふわした感じがあったというのも、変な興奮が続いていた原因だと思います。
この機会がなかったら、近年まで私は日本から出たことがなかったかもしれない、と未だに思います。それほどに腰の重い私を軽やかに旅立たせた、愛すべきリシツキー。そんな彼の活動を紐解いた書籍をご紹介します。
Margarita Tupitsyn
El Lissitzky - Jenseits Der Abstraktion
こちらがシュピレンゲル美術館での展覧会図録です。手がけた作品は各分野から網羅されていますが、他に比較すると平面作品、特に二重露光などの実験を含めた写真や広告やポスターなどのグラフィック作品が多めです。白地に写真をコラージュした作品が載る表紙と白一色のシンプルな装幀が、当時のホワイトキューブでの展示を思い出させてくれます。
ドイツの雑誌に掲載されたリシツキーの建築物の連載原稿などをメインにまとめた本です。次に紹介する『構成者のヴィジョン』が2005年に出るまで、リシツキー個人の名前を冠につけた翻訳本はこれくらいしかなかった気がします。ロシアの新しい建築設計と街づくりの関係、空間設計がコミュニティ形成にどう関わるかなどの解説文や図版が多数掲載されている興味深い本です。日本の団地マニアに有名な「スターハウス」の原型も、増加する国民を収容しコミュニティ化する集合住宅の例として紹介されています。
が、リシツキー好きには、自身の作品や理論解説を行った原稿が並ぶ付録がポイントかと思います。例えば、クルチョーヌイフの未来派オペラ「太陽の征服」の舞台美術解説や、1926年のドレスデン国際美術展でデザインした「展示室」の解説、また独自の芸術理論「芸術と汎幾何学」など。この辺は代表的なテキストだけにいくつかの書籍に邦訳が掲載されていますが、こちらの本は比較的読みやすく感じました。
2005年に国内で発行されたリシツキー研究本。経歴や作品に関する概要説明、図版含めその功績が満遍なく取り上げられています。中でも『声のために』をはじめとするブックデザインや絵本に関するタイポグラフィ関連がメイン。そういえば、何冊かあるリシツキーの作品集を並べて見た時になんとなく「ムサビっぽい本だなあ」と思った覚えがあります。デザイナーを多く輩出する大学らしさというか、実務に繋がるような視点をこの本に感じたのかもしれません。ものすごく個人的な印象ですが。
El Lissitzky
Maler, Architekt; Typograf, Fotograf - Erinnerungen, Briefe, Schriften
最後は、リシツキーの妻、ソフィー・キュッパースが編纂した世界一のリシツキー作品集を。グラフィックデザインや写真、ブックデザイン、建築など、当然のことながらすべての作品を網羅しています。また、ブックデザインやタイポグラフィの先駆者らしく、グラフ誌「ソ連邦の建設」の観音開き、当時に近い用紙で綴じ込んだ『二つの正方形』のエディトリアルデザインなど、造本上のギミックも再現した作品紹介パートがあるのが特徴です。これは前述した「ドイツで買ってきた本」の一冊なのでドイツ語版ですが、実は英語版もあります。京都の美大の図書館にあった英語版を借りて訳していたら(ドイツ語の知識が追いつかなさすぎた)、ドイツ版から英語版への翻訳の誤りを見つけたという珍しい小ネタも含め、個人的にとても思い出深い一冊です。
数回にわたって個人的趣味を炸裂させつつご紹介してきたロシア関連の書籍。最後は、20代前半の私の心をがっちりと掴んだ芸術家リシツキーに関するものでお送りしました。後世に生きる人間の心を動かし、その行動すら変えるほどの力を持つ芸術家を生み出したロシアとロシア・アヴァンギャルド。その魅力や面白さを知るきっかけになれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
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