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わきまえる=自分が劣った地位にあることに気づいているということ(英語)

英語と日本語は言語の違いだけでなく、文化の違いも大きいので、同じ英語の動詞や単語でも、どういったContext(コンテクスト/文脈)で使われているかによって、どういう日本語の内容になるのかは、大きく違ってきます。
そういった中でも、英語に訳すと、根本的な意味がはっきりと現れる場合もあります。

日本語・日本文化では、「わきまえる」という言葉が使われる時が多いのではと思いますが、多くの場合、英語では、以下となります。

know one's place  = to be aware of one's inferior position
自分の場所(社会的な地位等)を知っていること = 自分が劣った地位にあることに気づいていること

考えてみると、誰かがほかの人に対して「わきまえろ」と命令・注意・助言する場合は、立場が上だと思っている人から、その人が立場が下だと思う人へと言う場合が多いのではないのでしょうか?
英語だと、この構造がはっきりと見えます。
だから、「わきまえる」という内容の言葉が日常的に普通の人々の間で使われることはまずないし、使われるとしても、とてもネガティヴな意味合いとなります。
なぜなら、誰もが同じ権利をもち、ひととしての価値や命の価値に上も下もないのは当然のことだからです。

何の疑問ももたず「わきまえる」人々が多く、普通の市民たちがお互いに「わきまえる」ことを監視・強要する社会は、既存の権力構造を保つことに役立ち、既存特益層にはとても都合の良い社会です。
既存特益層に属さない圧倒的に大部分の人々(=普通の市民)にとっては、自分たちを低い地位に閉じ込め続ける悪い仕組なのにも関わらず、不利益をこうむる普通の市民こそが、お互いを「わきまえろ」と監視・強要するのは、普通に考えると意味を成しません。

これは、日本という小さな場所だけでなく、地球上の国々という視点からみることが、この構造を見抜くことに役立ちます。

既存特益層にとって、極端に不平等な社会をキープすることは、自分たちの権力や経済力を保ち続けることに役立ちますが、大多数の普通の人々を犠牲の上に成り立っていることは明らかです。
大多数の普通の人々がこの構造に気づき、この不平等な仕組を壊そうとすれば、とても少数の既存特益層が権力や経済力をあっという間に失うことは目に見えているので、既存特益層にとっては、この構造を保つために、大多数の市民たちがからくりに気が付かないような仕組をつくって保つことは必須です。
大多数の市民たちが、真の問題である、不平等をつくり、保っている構造に目をむけないようにさせるには、市民たちを極端に貧しい状況において毎日のサバイバル以外は考えられない状態を保つ、市民たちの間に人工的なグループをつくりだし、いくつかのグループを優遇、いくつかのグループを悪く扱うことで憎しみを生み出し争わせることは一つの方法です。
既存特益層に比べて立場が圧倒的に弱い市民たちのなかにも、さらに弱い立場のグループを作り出し、そのグループをスケープゴートにするのも一つの手法です。
上記は、別に新しい手法ではなく、15世紀以降の植民地支配でも、アパルトヘイトでもよく使われた手法でありながら、人々が簡単に陥ってしまうものでもあります。

これは、独占・支配階級がすべてを握り、残りの大多数である被支配階級が虐げられる社会的不正義であり、その視点から観ることも重要です。
社会的不正義・正義については、いわゆる第三世界(植民地支配を受けて、苦しんだ国々がほとんど)の人々の多くは、鋭い目をもっています。

インドの歴史学者・ジャーナリストで、アメリカで長く活躍するVijay Prasha(ヴィジャイ・プラシャド)さんが書いていた「Mother Teresa: A Communist View」では、一見、極端に貧しい人々(ほとんどは有色人種)を救う活動を献身的に行っていると見られていたマザー・テレサ(ヨーロピアン白人キリスト教徒)の活動が、実は既存特益層の宣伝塔として、貧しい国や人々をその場所にずっと閉じ込めておく役目を果たしていたこと、有色人種たち自身がいつまでも白人の施しや指導がないと何もできない劣等な人々・立場であると思わせるような役目を果たしていたことを鋭く見抜いて、分かりやすく語っています。

日本でも、マザー・テレサという名前で知られているとは思いますが、20世紀半ばに貧困に苦しんでいた多くの国々(ほとんどは、旧植民地国であるアフリカ、中近東、アジアー有色人種がマジョリティーの国々)に行き、キリスト教(カソリック)の修道女として慈悲を施したとされている人です。

この一般的な見方に、ヴィジャイさんは疑問を投げかけます。
インドでは、1984年に、ボパールという町で、アメリカの化学薬品工場ユニオン・カ―バイトがガス漏れ事故を起こし、統計によっては違いはあるものの、2万人が亡くなったそうです。
工場は結局閉鎖されたものの、洗浄作業はきちんと終わっておらず、毒性のある物質がきちんと管理されずに放置されていて、40年以上たった現在でも、子供の奇形や死産、特定の癌にかかる人々が多いなど、問題は続いているそうです。
イギリスの国営放送BBCが2004年に調査したときにも、土壌の汚染状況はひどく、場所によってはインドの基準値の500倍だったそうです。

インドでは誰もが覚えている事件だそうですが、この事件が起こった際、マザー・テレサが車に乗ってボパールを訪れ、被害者や被害者の家族に胴でできた宗教的な意味合いのあるメダルを配り、以下を語ったそうです。

「これ(今回のガス漏れ事故)は、自然火災のようなもので、どこにでも起こること。だからこそ、許すことは大切です。許しは、私たちの心を清浄します。この後(許した後)は、(あなたは)以前よりも100倍以上、よいひととなります。」

マザー・テレサを後押ししていた当時の教皇は、以下のような発言をしたそうです。

「(人類のために)進歩をとげるよう努力をしていることから起きた悲しい事故」

マザー・テレサ、教皇のことばに、違和感を感じないでしょうか。

この事故は、自然災害と同じではありません。
ヴィジャイさんは、1968年の工場設立以降、工場の安全性には問題があり、ボパールの町の人々は、もっと人口が密集していない地域に工場を移転するよう頼んでいたそうです。
この事故が起こる2年前には、アメリカ本社からの技術チームがボパール工場の検査を行い、いくつもの主要な施設・機器の不具合を発見したそうです。
この不具合が発見された機器の中には、2年後にガス漏れを起こした施設・機器も含まれていました。
それにも関わらず、修理はまったく行われず、それどころか、プロフィットを増やすために、安全性を守るための工程がいくつも削られたそうです。
2年後のガス漏れ事故は、企業のプロフィット追及のために安全性を無視・軽視した結果の人為的な事故です。
こういった事件が起きるのは、往々にして貧しい国であるのは、豊かな国では危険な物質を扱う工場を自分たちのエリアにはもちたくないのと、貧しい国の政府にプレッシャーをかけて安全基準を緩くする(=プロフィットがあがる)ことが可能だからです。
このプレッシャーは、西側企業の言う通りに安全基準や労働基準を緩くしないと、食糧エイドや、国際機関からの貸付金を出さない等、貧しい国々の人々にとっては死活問題となることもあれば、現地のいわゆるエリート(土地の豪族や地主等で政府とも深いつながり)に西側企業が多額の賄賂(わいろ)を渡し、農民を立ち退かせたり、抵抗する町や村の人を脅して黙らせる等も含みます。
また、ここには、有色人種への根深い差別もあります。
この事件が起こってから10年ほどたった頃、ユニオン・カ―バイトと同じく農薬等の製造・販売を行っていたAmerican Cyanamid(アメリカン・サイアナミッド)の代表は、この事件について以下のような発言をしたそうです。

「ボパールでの事故の死者数を深刻に考えるべきじゃない。インド人は、北アメリカにいる私たちのようにひとの命を大切に考える哲学はもっていない。」

ちなみに、このアメリカン・サイナミッドは、多くの公害を引き起こし、大部分は、製薬会社ファイザーに買収されました。

ここからも、「白人の命>>>>>>>>有色人種の命」は明らかですが、当然、これは偽りであり、肌の色やどこに住んでいるか、学力等に関わらず、誰の命も同等に大切なものです。
これがヒューマニティーとしてシェアされていない限り、こういった人為的な事故がなくなることはありません。

ヴィジャイさんは、マザー・テレサの言動の後ろには、いくつかの要素があると考えています。
マザー・テレサの慈善事業の資金は、独裁者や西側企業のリーダー等からきています。飛行機を提供した企業もあります。
企業や独裁者にとっては、慈善事業に寄付していることを大きく宣伝していることになり、マザー・テレサも、自分がこれらの企業や独裁者の都合の悪い事実(自国民を抑圧、公害を別の国で引き起こし責任を取らない等)をホワイト・ウォッシュするための宣伝塔として機能していることを知りながら、お金を受け取っていたのではないかとヴィジャイさんは述べています。
また、貧しい国々があること・極端に貧しい人々がいることは、世界・経済・社会の構造的な問題ですが、マザー・テレサは、貧困をなくすことには全く関心がなかったことは、下記のようなことを述べたことからも明らかです。

「貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいもの(=貧しい人々は貧しいという場所から動くことを望むべきではない)」

これは、マザー・テレサの慈善事業に多額の資金を支払った西側企業にとっては、とても都合のいいことです。

貧しい国々や貧しい人々が、構造的な抑圧に気づいて、その状況を変えるよう正当な抵抗を起こす可能性が低ければ低いほど、西側企業・西側政府にとっては、その国の資源や労働力を搾取でき、自国では考えられないような極端に緩い安全基準で公害を引き起こし、劣悪な労働環境で多くの労働者や地域の人々が死んでも、法律・経済的に責任を取る必要はほぼゼロです。

ヴィジャイさんは、マザー・テレサは、貧困とそれに伴う苦しみについてのブルジョワ層(西側政府や企業・人々ー貧困国と貧困層をつくりだし、それを保っている人々)の罪深い気持ちを楽にする役割を果たしていて、実際に貧困をつくりだし、保持している権力については真のチャレンジはしていない、としています。

貧困である国々のほとんどは、数百年にわたって西ヨーロッパ白人キリスト教徒に植民地化され、多くの原住民たちが殺され、資源や土地を奪われ、生き残った原住民たちは、奴隷にされたか奴隷のようにほぼただ働きさせられた国々です。
20世紀半ばに多くの国々が植民地宗主国から独立したものの、自国の資源は元植民地宗主国の政府か企業に握られていて、経済的にとても難しい状況が続きました。
アルジェリアのように、フランスからの独立・抵抗運動で、フランスからの残虐な武力抑圧のため、独立運動で人口の10パーセントが殺された国々の例も珍しくはなく、イギリスやドイツといった元植民地宗主国は、植民地国で現在での虐殺にあたることを数多く行い、その地域の生きるために必要なインフラストラクチャーや家や土地、農地の破壊も大きく行いました。
自国民のために、教育や公共事業をよくする目的で資源を国営化しようとした国々は、アメリカやイギリス・フランスといった元植民地宗主国からの直接・間接的な介入で民主的に選ばれたリーダーは取り除かれ、西側諸国の傀儡政権が据えられました。
これらの傀儡政権は、自国民のためではなく、自分たちの富や権力ためだけにいるので、西側諸国のいうことだけを聞いて賄賂を受け取り、国全体が貧しいままにしました。
また、これらの西側企業は、ローカルのエリート(その地域の豪族・王族や大地主等)に賄賂を払い、なんとか自給自足していた農民の多くを自分たちの土地から追い出し、広大な土地や農地を取得(盗んだといったほうが的確)したせいで、多くの農民たちは生きる術を失いました。
南アメリカの多くの国々では、西側企業がプライヴェート民兵を雇い、工場や広大な農地をつくるのを反対する人や土地を売ることを拒否する人々(ほぼただ同然の価格)を脅したり、殺したりする歴史は長く、最近では、命の危険も抱えながら裁判に訴える人々も出てきています。
現地の政府は、これらの西側企業のポケットの中にいるケースが多く、政府軍や正規の警察が関与したり、事実を知っていても知らないふりをすることも多いそうです。
また、西側企業がやってきて栽培するのは、その国の人々の食料ではなく、輸出用の食べ物(安全基準も労働基準も緩く安い労働賃金で長時間働かせられる地域で栽培したものを豊かな西側諸国に高く売る)で、大規模な土地が単一栽培となります。
これは、干ばつや洪水、気候変動での気温の変化等があったときに、飢饉となる可能性を高めます。
その上に、その国での主要な穀物は、西側諸国で政府補助金を使って安価にした穀物を大量輸入させることによって、なんとか穀物栽培をしていた農民たちも、価格的に太刀打ちできなくて、農業を諦めざるをえなくなります。
そうなると、さらに、ちょっとした干ばつや、西側諸国での経済危機等が起きると、毎日の食べ物でさえままならなくなります。
ほかにも、いまだにフランスの旧植民地国の貨幣はフランスに管理されており、自国の中央銀行は貨幣の発行権をもっておらず、フランスに選ばれた役員によって経済政策が決められる等、目に見える植民地化が終わっても、搾取の仕組は残り続けていて、元植民地国が経済的に貧困から抜け出すことが非常に難しい状況です。
西側諸国は、貧しい国々をさらに貧しくしたり、西側企業の資源確保(石油・ガスや鉱物等)のために直接的・間接的な軍事介入で貧しい国々・地域を混乱に陥れ、多くの人々が安全に住めない環境をつくっておきながら、難民を「脅威」として扱い追い出そうとするのは、皮肉なことです。
大事なのは、物事の根っこをみることです。

また、国際通貨基金や国際銀行も、「貧困を世界からなくす」という標語とは全く反対に、貧困国を貧困から脱することを助けず、西側諸国がいつまでも搾取する仕組を押し付けます。
これらの機関は、ネオリベラリズムを貧困国に押し付け、貧困国が自国の国民のために病院や教育を向上させるプログラムを中止させ、公共事業やさまざまな資源を私営化させ、そこに西側企業を誘致します。
水が私営化された地域では、水道管等のインフラストラクチャーは全く改善・向上しないし、水質も悪くなるばかりなのに、水道料が異常にあがり、その地域の半分の人々は水道代が払えず使えない、という状況を作り出したこともありました。
これで得をしているのは、西側大企業のみです。
水や住む場所、教育、病院といったものは、生きるためには最低限必要なものなので、プライヴェート企業のプロフィットがひとの命より重要視される現状が正義であるわけはありません。
近年だとメキシコでも、これらの施策により、全体的なGDP(国民総生産)は10パーセント近くあがったものの、絶対貧困率が急増し、極端に貧しい人々が一気に増え、限られた一部の人のみが富を得る、という極端な貧富の差を生み出したそうです。

貧困は暴力であり、社会的不正義です。

これらは、構造的な問題で、個人ががんばれは、どうにかなるという問題では全くありません
この構造に対して、社会・世界全体の労働者層(地球上のほとんどの人々)はゆさぶりをかけ、闘う必要があります。
そのためには、まず、その不正義な構造に気づく必要があります。
マザー・テレサや元教皇の真意は誰にも分からないとはいえ、「貧困状態にある人(或いは国)は、その状況を変えることは不可能なのだから、(変えようなんて思わず)貧困の美しさに感謝しましょう」という偽りのことばにだまされないことは大切です。
その偽りのことばで、誰が得をしているのか、考えましょう。

貧困はつくられたものであり、変えることは可能です。
世界全体でも、貧困層には女性と子供が圧倒的に多いことは、構造的な問題であることは明らかです。
この構造から得をしている人々は、この構造を保つことに力を入れることはあっても、この構造を壊して平等な社会を築くために行動を起こすことはまずないと理解して、女性や子供たちのように抑圧されている人々こそが団結して行動することが大切です。
貧困を地球上からなくすことは十分に可能で、私たちは根本的な問題である貧困をつくりだし保持している仕組・構造に働きかける必要があります。

このユニオン・カ―バイトの当時の社長は、インドの最高裁で有罪となりましたが、アメリカへと逃げ、インド政府からの引き渡し要望はアメリカ政府に対して出したものの、インド政府もアメリカ政府からの補助金や貿易等の関係で強く出ることはなく、結局は、元社長は、なんの責任も取ることもなく快適な人生を終えたそうです。
賠償金は少ない額だった上、間に入った機関や人々に不正にお金が渡ったこともあり、多くの被害者は賠償金を支払われなかったか、支払われたとしても非常に少額だったそうです。

それでも、まだ正義を求めて活動を続けている人たちが存在するのは、希望がもてることです。

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