降井サットウ

俳優・演出家・シネマイム作家 ◆Cine-mine Performance Team「TENNiNE」 http://tennine.info ◆Radio 「テンナインのシネマイム・パラダイス」 ラジオフチューズ87.4MHz 毎週水曜 22:30-22:52

降井サットウ

俳優・演出家・シネマイム作家 ◆Cine-mine Performance Team「TENNiNE」 http://tennine.info ◆Radio 「テンナインのシネマイム・パラダイス」 ラジオフチューズ87.4MHz 毎週水曜 22:30-22:52

マガジン

  • 「あの大鴉、さえも」ができるまで

    竹内銃一郎作「あの大鴉、さえも」の舞台(?)製作の記録

最近の記事

劇場版シティーハンター 天使の涙

新宿への特別感は「シティーハンター」に培われた。 東北の田舎育ちの自分は、90年代にテレビに映し出される「都会」「東京」にそれはそれは偏った憧れを抱いていた。 一方で、学校の通学路で遠くに幻想的にそびえたつ奥羽山脈のその先。 そこへ行けばもしかしたら冒険が始まるんじゃないかとワクワクするような子供でもあったので、都会というより冒険とか物語とかそういった類のものへの憧れだったのかもしれない。 偏った、というのは都会のイメージがすべて夜だったからだ。 あの時代に寅さんに

    • 頭を止めるな

      DesignFesta vol.57の稽古が始まった。 テンナインが初めて出展したのは、2013年(たぶん)だから、おそらく10年目になる。 途中、抽選に漏れて間が空いた時期もあった。 真偽は分からないが、連続落選の事実は、ブースでパフォーマンスという形態が難しい証左とも思えた。 それからコロナが来て、定着して、それでもデザフェスは多くの人の支持と熱意のおかげで存続し、今回57回目を迎える。 我々テンナインにとっては、ホームのような感覚さえある、大事な場所になっているのは間違

      • 客席を取っ払え

        ―客席を取っ払え! シネマイムVR動画制作に寄せて コロナ禍でのテンナインのライブ配信公演からもうじき2ヵ月が経つ。 その間、八王子演劇祭の演技アドバイザーとして4団体の公演に触れる機会があった。 演劇祭自体は紆余曲折を経てアーカイブ配信公演となったが、私自身は劇場で鑑賞することが出来た。それぞれの団体が個性を強く発揮し演劇の多様性を感じるもので、これはいち演劇人として嬉しくその想像力の可能性に感銘を受けた。 一方で、関係者のみが座する客席、ホールの規模以上に距離を取り作ら

        • 20/06/15

          ドラえもんのSF=すこしふしぎが頭を埋めている。 今ではだいぶ浸透した話だけど、これを初めて聞いたときにはF氏への尊敬念が膨らんだものだった。そんな解釈をするのか、ガーン! となった。 そこからドラえもんの映画をすべて見てみたりして、すこし不思議の世界に没頭させてもらった。 解釈というのはオリジナルだ。役者が決まったセリフや動きの中で打ち出せる個性は解釈がその演技に反映されるからだ。演劇において再演が一般的なのは、生ものである唯一性と、作品が持つ普遍性、そしてそこに演出家や

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        • TENNINE
          1本
        • 「あの大鴉、さえも」ができるまで
          5本

        記事

          20/06/08

          所属団体「テンナイン」でラジオ放送を開始。 始めこそリモート録音で音質に難があったが、いまは週に一度のスタジオ通いで収録をしている。音質も問題ない。 こういった新しい試みには、気分が上がり、具体的な何かに対してではないが期待感が生まれる。すぐに結果を想定して動こうとするのが今までの取り組みだったが、やれる範囲には限度があった。ラジオで宣伝効果を生みたいというのは至極もっともな考えであり、それを否定するほど創作者寄りの思考はもっていない。団体運営の思考から、目に見える何か、金と

          20/5/30

          壁が気になる。 大ガラスばかり気にしていたが、壁も重要な要素だ。 あの壁はなんだろう。安易に考えれは障壁であり境界であり、人間にとっての社会だったり。乗り越えたいものだったり。 色々な壁がある。 壁で思い出したのが、パレスチナ映画「オマールの壁」だ。原題は「عمر」。 読めない。 調べてみると翻訳は「オマール」だった。そうか「壁」は邦題にのみあるのか。 オマールはパレスチナ自治区の青年。 映画では、彼が数メートルはあろう高さの壁をパルクールさながらによじ登り乗り越えるシー

          20/5/29

          戯曲を読み直す。 照明、音響、セットの内容が細かく書かれている。 当たり前だが、芸術劇場で上演されたものは、この細かい記載を再現はしていなかった。 それが表現だと言うは容易いが、その必要性がないということだと思う。 この戯曲が書かれてからかなりの歳月が経っている。 世の中は変わり続けているし、価値観も変わり続けている。 シェイクスピア作品がそうであるように、戯曲というのは常に解釈をされて発表され、その時々の観客にまた解釈される。それでも損なわれない普遍性がある戯曲は生き残り、

          20/5/27

          思考が別な方向に向かう。 まっさらなところに描いていこうと思った矢先、このリセット願望があの大ガラスを運ぶ者たちにあったらと思い浮かぶ。 途端に不条理を感じてしまわないだろうか。 終わりの見えない運搬作業、しかし運んでいるのは3人、動く方向も上げるも降ろすも1人で勝手には決められない。自分ではどうしようもないことに不条理を感じる。自分以外の2人が世の中の象徴になる。 そこで、始めなければよかったという考えがよぎる。一度、まっさらにして問題を整理したいと欲求が湧く。 しかしそれ

          20/5/26 A

          スタートの勢いに任せて予算や日程まで考えたが、いま一旦すべてを削除した。 このコロナ禍の状況において、既成の方法や手順が本当にうまくハマるのか。一度考えてみたくなったからだ。 社会が変われば、その状況に応じてなにか既成概念をぶっ壊して新しいものを打ち立てたいと思ってしまう。 世を見ればそうやって生まれたものが既に動き出している。実際にはそれらの多くは、ボツとなった試みの上にある上澄みで、ある人はビジネスチャンスととり試行を繰り返した結果で、ある人はどうしようもない閉塞感から

          「あの大鴉、さえも」にあたり

          大鴉はマイムを使うことから上演候補として挙がりはしたものの踏ん切りがつかないでいたものだ。 目的を持たない惰性の上演は自分は陥りがちで避けなければならないと念頭に置いている。 そんな中、芸術劇場で大鴉が上演される、しかも女性キャストで、と知る。 観ることで出来なくなるかもしれないと不安がよぎるがそもそも上演予定がない現状。このまま頓挫しているのは具合が悪いと思い観劇に踏み切った。 結果、素晴らしい舞台だった。が、やはりかえって自分を迷走させることとなった。 作品を上演するには

          「あの大鴉、さえも」にあたり