日記2021年 年度の変わり目

自分はすーぐ自分を忘れてしまうので、色んなところに自分の足跡を残さないと迷ってしまう。だからまとめ。

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これらのことをSNSに書くのは自分がかわいそうですと表明したいのではなく、自分が今感じていることは誰かへの共感になると思って忘れないために書いている目的があります。後のマジョリティになる自分への自戒です。
大変な環境下ではあるけども、自分はマジョリティの部分が多いので。

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3/30ー

クリエイターや学問を続けていくにしても、自分の興味を大事にしつつ、他人の助けになることを続けていきたいな。
他人といっしょに勉強してなにかを作り上げることが好きだから、それを大事にして勉強していきたい
他人といっしょに勉強して、なにかを作り上げる塾とか学校あったら自分的には最高だな。共同研究とか超楽しそう。

勉強=競争という考えがあまり好きではない。楽できるところはデバイスで楽をして、お互い調べてたり考えたりして、研究にフィードバックして、面白いこと役に立つこと考えなきゃいけないことをやっていったらよいと思うんだけどな。

できたものを妥協しあうとかではなくて。できない人に仕方なくあわせるとかそういうやつではなく、じゃあなんでできないんだろうとか一緒に考えていける環境を作りたいですね。

バイアステスト

ニュース


3/31ー

寝れなくて色々考えていた。実家が2日に1回しか風呂に入れない家だったな、とか、子供に家事は強要しないけど家族への心理的なケアをさせる家だったな、とか。
実の家族に比べれば今まで出会った人達が私の人生区分でいい人間すぎて、そういう人達の為に色々がんばりたいですね。
家族のためにも自分のためにもがんばれないけど、善いなと思った人達のためにがんばりたいですね。(その人達に私のそういう責任を負わせたい訳ではなく。)
まあたまに世間の一般の生育と自分の生まれ育ちが違いすぎて色々悩むんですが…

自分は結局性別違和があるし傍からみれば同性愛者だし競争社会に違和感があったから、まあこんなんだけど、シスヘテロ女性/男性だったらそれぞれの規範に求められた期待をこなそうとする人間になったと思うんだよな。なれなかったし、なれないけど。

だから、まあマジョリティで"考えたこともなかった"と言う人や、マジョリティに求められた像をこなそうとするマイノリティの気持ちのことを想像できなくもない。
自分に価値がなくてもでも価値を見つけてくれる規範があればそれに迎合したいよね、という。(4/1への伏線)

#TransDayOfVisibility #国際トランスジェンダー認知の日

[6年ぶりの無職]

昨年11月から色々自分と向き合って、たくさんの人が大変な中、制度を使って学ぶことに決めて、やあ人生って一本道では上手くいかないなと思いつつ、自分が見つめてる先を想起するために星を思い出す。
イデアの影しか人は見えないかもしれないが、イデアっぽいものは(迷わされつつも)想起することができる。

自分が感じているもので他人に願うのはどうかと思うけども、自分の文脈の言語で言うなら、どうか他人の人生に星があってほしい。見えてほしい。
苦しんで死んでいくかもしれないけど、最期の瞬間まで星があるように、みえるような社会にしたいし、みえさせる人間でありたい。

と、幾分か穏やかな気持ちで書いてますが、やっぱ退職に至った経緯とかそれでも直面した人の善意とかしかしそれと一体の「何か」への無視とかについて、考えてしまって非常に感情が複雑になっています。おぉ、これが人間であるということなんですね・・・
(台無し)

4/1-

色鮮やかなものだけがレインボーではないし、みんながみんなポジ/ネガになる圧力を感じなくてもよいし、大変な時は大変といっていいし、助けを求めてもいい。すぐには助けがこないかもしれないけど、助けを求めた人のことを覚えている人が必ずいる。

一瞬無職でしたがヘルプにより働いたら、精神が”シンプル”になったのを感じた。なにかに所属していれば、先細りしてようが自分に権利がなかろうが、未来を考えなくてよくて、なにかを見て見ぬふりをしてよい、という安心感。この安心感は嫌だ。

差別に立ち向かう気がなくなったり、なんとなく先細りはするけど別にいいか、と思う人の気持ちがわかったかもしれない。
精神がシンプルにならないための方法として、学問と宗教(問い続ける認識の在り方と精神の安定を両立するものとして)を、身近に置かないと、まじで正常性バイアスに呑まれてしまいそうになる。
色々、改めて考えてしまった。

あーーなんかえぐいなーと思ったのは、世間で院卒の軽視は確かにあるんだけど院卒じゃないと着けない仕事があって、うちの大学の人や実家だと院にいくという選択肢を考えない人が多いので、あっ世界が隔絶されていると愕然してしまった。そりゃ進学率に差が出るし、それこそポピュリズムが流行るよな・・・という。

今年、もしかしたら減免世帯にあたるかもしれないから今制度を調べていた。

関連で電気代支払いについての生活保護を巡る2018年頃のニュースを見てたんですが、電気代も減免にしたほうがよくない……?と今の感想。民営化を安易にしてしまうと減免対象にならないかもしれないの、結構やばくないですか。
生きるだけで精一杯だ、といって五体満足で働いてる人の身近で、高齢者等がエアコン(これもやっと最近okになったことを知った)を使えずに熱中症で死亡したのを知ってしまうと、ぐぐぐぐぐぐという気持ちになる。

亡くなった人々に、享受できるべき学問があり参加できるべき地域があり自立した人間として存在する権利があったんですよ。

ぼかぁ頭がおかしいながらもスマートで愛嬌があってストレスで髪が抜けるけども精神性がゾンビで(ここまで自画自賛)頼れる人達が身近にいてくれて概ねよい地域で五体満足で戸籍と住民票があって法学部卒というバリバリマジョリティなんすよ。

こういう時、自分が生きててやだなと思う。日常で幸福を感じることもある。幸福を誰かが与えてくれる。
でも自分よりも様々なものを享受すべきだった人達を自分は今まで見捨ててきたという事実よ。

しかし自分が誰かの安らかな幸せだとか最期や尊厳を願ってしまうように、自分にもその願いを向けるべきではあり、自分は自分のその対象者だということに苦しみを感じるが、それは責任をもつために直面しなければならない課題ではある。

みんながみんな自分みたいな頭のおかしい気持ちを抱く必要はないけども、でもさぁ、見てない分他人が死んでてあるべき可能性が失われてる訳ですよ。いや誰かは他人が死んでてもどうでもよいと思うかもしれないけど。

じゃあ人が死んだ最後の経緯までの責任は誰が負っているのか。

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こういうことをずっと考えながらこの状況下就活してしまう。ストレートに言葉に出すなら、自分が生きてた分の贖罪(こんなかっこいい言葉ではなく、尻拭いが妥当)をするために働きたいんですよ。お前の会社の利益が社会的公益と個人の人権を守らないならどうだっていいーーッ(ネホン)

このネホン、自分の社会的階層の出と能力から考えると通常はなり得る確率が低く、なっても折れる傾向が高いんですが、自分は卑しい出のすごくないマイノリティ性があるマジョリティなのにこんな精神性でまじでおかしい。なのでルサンチマンにまじで陥らない様に自分を律することが必要。

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自分が持続的に何かをしようと決めた時、私の親はすぐ結果を求めるタイプでかつできなければお前はかわいい子どものままでいろよ(女の子は嫁に出せばいいからね)、という育て方を15年間されてきたことのトラウマが蘇る。子どもを支援しつつ自立を促すことをしない親ってなんだろうね・・・(これが学習性無気力の兆候でしょうか。)

これで親がもっと社会的に何か他人を助けてたり立派な人間だったらよかったんですが、そうでもなく。

なので、今の周りの人が時間をかけてもいいよと言ってくれて(その時やるべき仕事は除く)自分の生活ややりたいことを後押ししてくれることにたまにびっくりしてしまう。やっと最近、嬉しさを感じるにようになってきた。
根本的な安心感ってこれよね・・・

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