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取り戻せない熱のはなし part2 『アルカディア』

今回は、先月まで参加していたWS「play room」で出会った戯曲『アルカディア』について綴ろうと思います。
作者はイギリスの劇作家トム・ストッパード。
代表作は『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』『レオポルトシュタット』
映画『恋に落ちたシェイクスピア』等。

※注意!!!!!

ここから先は『アルカディア』の展開や結末のネタバレがあります。&『アルカディア』を既読の方でないと意味わからん記述がほとんどです。
まずは戯曲を先に読むことを強くオススメします!





あのー。まずさ、
「19世紀のイギリス貴族のお屋敷から、宇宙の終わりとはじまりにまでリーチする戯曲」ってなんなん?
どうやったらそんなん思いつくん?

というのが、初読の時の感想だった。

play roomの参加者で、初読で「おもろー!」派と「は?わからん」派でアンケートをとった際「は?わからん」派の方が圧倒的に多かった。
戯曲の裏表紙に"難解にして美しくも切ないストッパードの傑作。"とある通り、この戯曲、かなり難解。


さて、『アルカディア』を読んだことのある皆さま。
「これって、何についての話?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか?

漠然としているのでもうちょっと具体的に。
「何についての話?」という質問には、ふた通りの意味がある。
ひとつめは「何が起こるか?」
ストーリーの展開、起承転結、play roomで言う「書かれている事実」のこと。
これに対する『アルカディア』においての答えは「ハンナが"隠者の正体はセプティマス"だと突き止める話」となるだろう。
なら、もうひとつの意味は?
「何を伝えようとしているか?」
戯曲のテーマ、メッセージ、「このストーリーによって、観客に何を受け取ってほしいか」というということだ。

私は今回「何を伝えようとしているか?」について書きたい。
ここから先は、一俳優の個人的な解釈に過ぎないので、完全に読み間違えているかもしれないし、トム・ストッパードに「いや、そんなんじゃないし」って言われるくらいトンチンカンなことかもしれない。
ただ「私はこう読むと幸せな気持ちになる」っていうことをシェアしたいから書く。


私はこの『アルカディア』という戯曲を「失われていくものの意味」について描いた話だと思っている。

詳しく説明するために、『アルカディア』のラストシーンを例にあげよう。

トマシナとセプティマス、ハンナとガス、時代を隔てた2組が、同じ場所で、同じ音楽でワルツ(ダンス)を踊る。
これがこの戯曲の終幕のシーンだ。

まず、トマシナとセプティマスについて言及したい。
観客(読者)は、優雅にワルツを踊る2人にこの後何が起こるのかをすでに知っている。
第二幕第七場でハンナが明かすからだ。

"ハンナ それは無理よ。有名になる間もなく死んじゃったんだから……
ヴァレンタイン 死んだ?
ハンナ ……焼け死んだの。
ヴァレンタイン じゃ……あの火事で死んだ女の子か!
ハンナ 十七歳の誕生日の前の晩に。"

『アルカディア』第二幕第七場

その残酷な事実、確定された未来に行き着くことは避けられない。
トマシナは道半ばでこの世を去る。
セプティマスと結ばれることもなく、大人になるという経験もせず、"熱"とともに混沌の中へ消えていく。
もう2度と同じようにワルツを踊ることはできない。
それなのに、私はこのワルツのシーンを「美しい」と感じる。


すべてのものはやがて失われてしまう。
私も人も、記憶、時間、この宇宙でさえも。
なら、それを愛することに意味なんてないはず。そこまでの価値はない。
どれだけ大切にしてもいつかはなくなるのだから。永遠には留めておけないとわかっているのだから。
"死"という結末を迎えると知っているなら、ワルツを踊る2人に「美しさ」を見出す必要なんてない。
はずなのに。

感じずにはいられなかった。「美しい」と。
そしてそれこそが、人が生きる希望だ。

"セプティマス これは結局、無限か、ゼロか、無意味に帰すものです。
トマシナ 違うわ、そのマイナス平方根を開いて、それを二乗すればまた意味が見出せるのよ。"

『アルカディア』第二幕第七場

"ヴァレンタイン いや、やはり、すべては無に帰す運命にある。けど、もし世界がこのように始まったのなら、たぶん、次の世界もこのように訪れるはず。"

『アルカディア』第二幕第七場

すべての熱は失われる。
しかし、その熱が"存在した"こと、そのもの自体は失われない。
有形だろうと無形だろうと、必ず何かを残して去っていくからだ。
そしてその残されたものを拾った誰かが、新たな熱を帯びる。
それこそが失われるものの意味、すなわち「確定された未来に向かいながら、不確定な現在を生きる私」が存在する意味だ。
熱とともに消えたトマシナから、また『アルカディア』の戯曲を読み終えた時に、私はその解釈を見出し、拾った。
それはこの先の人生でも、きっと胸の奥でキラキラと瞬き続ける。

そして、トマシナとセプティマスから拾った者たちが他にもいる。
現代で生きる人々、ハンナとガスだ。

"セプティマス そして私たちが捨てた物は後から来る誰かが拾います。道は長いが人生は短い。私たちは道の半ばで死んでしまう。しかし、何一つ道からはみ出すことはない、だから失われるものは一つもありません。"

第一幕第三場

"ハンナ 「セプティマスとプロータス」 
     これを探してたのよ、ありがとう。"

第二幕第七場

約200年前を生きた隠者の正体を探し求め、一つの答えに辿り着きはしたものの、証拠を見つけることができなかったハンナ。
そんな彼女にガスは、トマシナが描いた、セプティマスと亀のスケッチ(隠者についての記述と合致する証拠)を渡す。
まさに"道半ばで死んでしまった者たちが残した物を、後から来た者たちが拾った"のだ。
「死」は「無」に帰すことではない。
時には「死」そのものが、私たちの心に何かを残す。それをはじまりとして、新しいものが生まれる。
その無限の可能性の尊さを、ハンナとガスは示してくれた。
彼らはその後、ぎこちなくダンスを踊る。それによって2人の関係がどうなるかは描かれずに終わる。
やがては失われる"熱"かもしれない。
でも、その不確定な現在を生きている2人もまた「美しい」。
トマシナとセプティマスの"熱"が終わり、ハンナとガスという"熱"が始まった。
時代を超えて、エネルギーは受け継がれたのだ。

「ゼロになること」は、終わりではない。
私たちはもともとゼロから始まった存在なのだから。
ゼロになった時は、また新たな何かが始まる時。
それがこの世界の尊さであり、私自身の尊さでもある。
素粒子から宇宙まで、この世界のあらゆるものが、いくつもの終わりとはじまりを経験しながら、互いに影響し合って、生きている。
その「美しさ」を『アルカディア』は教えてくれた。

この戯曲に出会えて、とても幸運だった。
生きる上で何にフォーカスすべきか、シンプルな物の見方を示してくれたから。
人生が不確かだということは、自由意志によって選択することができるということ。
そうして私が選択したことが、他の誰かの"はじまり"にほんの少しでも寄与できるものになればいいな、と思う。

取り戻せないこの一瞬一瞬を、希望を持って生きていきたい。
軽やかに、ワルツを踊るように。


おわり(そしてはじまり)


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