祖母が亡くなった。
祖母が亡くなった。89歳だった。高齢な方が亡くなったときに使う「大往生」という言葉があまり好きではない。長生き=善であり、長生きできなかった人は長生きできた人に対して、何やら劣っているような感じがするからだ。捻くれすぎだろうか。ただ、「大往生」の意味を辞書で調べてみると、「少しの苦しみもなく安らかに死ぬこと。長生きして死ぬこと。また、りっぱな死に方であること」と出てくる(デジタル大辞泉)。どうやら、大往生という言葉には、長生き以外の意味も込められているらしい。りっぱな死に方ってなんだ。りっぱではない死に方があるだろうか(、いやない)。
僕と祖母との思い出は、基本的に夏休みにある。僕は小学生の頃毎年のように、夏休みに1週間ほど祖父母の家に泊まりに行っていた。その1週間の間は、祖父にプールに連れて行ってもらったり、巨大な望遠鏡のある展望台に天体観測をしに行ったり、夜はクーラーの効いた部屋でトランプゲーム大会を開催したりするなど、夏休みにすべきことトップ10を漏れなく実行するような生活を送っていた。その間、我々の英気を養ってくれていたのが、祖母が作る手料理であった。特に好きだったのがモーニングプレート。プレート1皿に、トースト・目玉焼き・サラダなどが乗った朝食なのだが、実家ではあまり経験しない形式だったこともあってか、僕は珍しい海外の料理を食べる気分でモーニングプレートを楽しんでいた。大人になり、ホテルなどで豪華なモーニングを食べる機会もあったりするが、祖母のモーニングプレートは他のどんなモーニングよりも、眠たい朝の体に優しく染み込み、体を少しだけふわっと浮かせる魔力を持っていた気がする。
ここ2年ほどは高齢者施設に入居していた祖母と、最近はあまりコミュニケーションを取れていなかった。そんな中で別れを迎えてしまったことは悔やまれるが、亡くなる半年ほど前に対面で会話したあの数分間を一生忘れることはないだろう。僕の記憶の中で祖母が生き続けるように、これからは祖母と関わった人々の記憶の中で、それぞれ少しずつ違う祖母が生き続けるのだろうか。
おばあちゃん、ありがとう。安らかにお眠りください。
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