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【めくるめく】落語をしていたのだ

 学生の頃、「・・・で、何学部なん?」ときかれると、「落語研究部」と答えていました。教室や研究室にはあまり顔を出さず、部室で座っていることが圧倒的に多い日々でした。
 かといって、練習熱心だったかというとそうでもなかったのですが、落語を学んだことはその後の人生に役に立ったとよく感じます。学問のほうはさっぱり身につかず、人生のなにかの役に立ったなんてことはなーんにも感じませんが。

 落語が役に立ったと思うのは、プレゼンテーションの技術の基礎を身につけられた、ということだと思います。
 職場でプレゼンテーション研修を受けたことがあります。
 架空の事例に基づいて、プレゼンテーションを行うという実技課題がありました。
 持ち時間は4時間。
 4時間で、プレゼンテーションに必要な情報を集めて、チームで議論して、PowerPointで資料を作成して、架空の顧客(講師の方々です)相手にプレゼンテーションを行う、ということをしました。
 プレゼンテーションの後で、講師の方々はわたしたちのチームに訊ねました。
 「資料作成にどのくらいの時間をかけましたか?」
 2時間くらいだった、とわたしたちは答えました。
 講師の方々は重ねて訊ねました。
 「プレゼンテーションのリハーサルにかけた時間は?」
 実際に言葉に出してのリハーサルというのはしていませんでしたので、していない、と答えると、チッチッチッ。それはよくありませんとの指摘を受けました。
 「資料作成にかけた時間のせめて2倍の時間をかけてリハーサルをしなさい」 
 資料を読んで説明するだけなら、わざわざ「プレゼンテーション」である必要はない。プレゼンテーションであるかぎりは、あなたがたは自分が舞台俳優なのだと思いなさい。舞台俳優がリハーサルもせずに舞台のうえで台本を読んで台詞を発していたら、観客に感動を与えられないでしょう。
 プレゼンテーションは、聴衆に感動を与えるべき場なのだと教えられました。
 たしかに、顧客とのビジネストークや、あるいはセミナーの講演の場において、言うべき言葉は言っているけれど、「伝える」ことができていない人をしばしば見かけます。

 落語は、噺家の話術の芸だと考えられがちですが、より正確には、噺家と聴衆との協働でつくる芸術なのだと思っています。
 噺家は、話し方がうまいというだけではなく、聴衆の反応を感じながら、ここでなにを言えばさらに笑いをとれるか、あるいは少し引くべきか、常にそれを考えながら噺をすすめています。そういった聴衆と噺家との相互作用をつうじて笑いを創造していくのが、噺家のプロフェッショナルとしての芸術なのだと思うのです。
 落研の学生のような素人であっても、落語はそれをきいている人よりも話者のほうが断然楽しいものです。聴衆と話者との間の空気をコントロールできたときは、なににも替えがたい、えもいわれぬ快感だからです。

 言いたいことを言うのではなく、伝えたいことを伝える。
 相手と自分との間の空気を感じとり、たしかに伝わっているかを確かめながら話をすすめる。
 プレゼンテーションは少なくともそうあってほしいと今のわたしはそのように思います。

 駅で電車を待つ間。手持ち無沙汰。こんなとき学生のわたしはしばしば頭のなかでネタ繰りをしてました。そうこうするうちに気分がのってきて、知らぬまに自分が落語のネタのなかの登場人物の表情をつくってしまってることにふと気づき、とたんに周囲の人の目が気になってしまったりしました。
 思い出すのも恥ずかしい瞬間ですが、実はそういうことは1度や2度ではなかったというのも今となっては自分でも驚きです。
 恥ずかしー!

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